廃車のある風景・背景
時々実動車
ーー廃車野晒し紀行ーー
新車も10年を過ぎると廃車という運命がやってきます。解体再生となる廃車がほとんどですが、中には野晒しのまま朽ちて行く車もあります。そんな車を見るにつけ、新車で走り回っていたころを想いながら,写真を撮ることで今を悼む気持ちを表したいと思いました。富士山撮影で走り回るうちに、多くの廃車に出会い撮ってきました。それらを少しづつ増やしていきますので、思い出しましたらご覧くださるとうれしいです。
№1-1 V W・T 2私がカリフォルニアの片田舎を旅していた時、60年代が凍り付いたような景色に出会い、思わずシャッターを押しました。というのは嘘で、ここは横浜の片田舎,金沢文庫です。駐車している車は言わずと知れたVWT2(フォルクスワーゲンタイプ2)です。国道16号線沿いにはアメリカンタイプのカウターバーとレストランが並んであり、その反対側にデイスプレイされているのがこの車です。 T2は、60、70年代の私が、否車好きの誰もがあこがれの車でした。T2が発売されたのは1950年で、その頃の日本にもワゴン車はありましたが、トラックから派生したバンタイプ車でした。それに対してT2は、完全にVWT1から派生した乗用タイプワゴン車でした。日本にもこんな車ができればいいのにと、ただただ写真を見て憧れるだけの車で、ほとんど見る機会もありませんでした。67年ドイツで生産が終了し、75年にはブラジルでも終了するまで多くの車が作られました。生産が終了した70年代に日本でのアウトドアブームが起き、ワゴン車の需要が伸びてアメリカから中古車が輸入されました。写真のT2も中古輸入車かもしれません。それから多く見るようになりました。それでも需要が満たされずに、同様のリヤーエンジン車スバルサンバーを改造したカスタムカーが造られたくらいです。もちろん今も現役で多くの車が走っているので、見ることも多いです。空冷1200ccの、乾いたカシャカシャというリヤエンジン音は、軽快で心を和ませます。この車、10年以上この状態で止まったままなので、廃車とばかり思っていましたら、先日、10メートルほど動いていました。ナンバープレートも付いているので、もしかしたら現役なのかもしれません。しかし、この車が、私に「廃車のある風景」を撮らせるきっかけとなりました。富士山撮影の道々、廃車になった車を見ながら、車を悼むと同時に昔を懐かしみながらその背景を考えたいと思います。
№1-2 トヨタ・タウンエース 20号線諏訪湖から塩尻峠を上り切り、下り始めた所から林道へ入って行き、30分ほど上ると高ボッチ高原に着きます。ここから富士山まで直線で106km、我が家から20号線を走り250kmで6~8時間かかります。10月、気温が下がり空気が澄むと、ここから富士山が良く見えるようになるので、各地からカメラマンが集まります。九州や東北の遠方から来る人は何日も車中泊することになります。広い駐車場に各地のナンバープレートを付けた車が駐車している中で、トヨタ・ハイエースを多く見かけます。ハイエースは67年に製造が開始され、フレームのないモノコックボデイで、たちまち中型トラック市場を独占しました。ハイエースワゴンは今も大人気で、撮影地で思い思いにキャンピングカーに改造した車を見ることができます。先日、熊本から写真を撮りに来るFさんの新車のハイエースを見つけました。ベットやキッチンはもちろん、床暖房まで装備されたすばらしいキャンピングカーに改造されていて、ソファーに座りコーヒーをごちそうになりました。この時ばかりは私の軽ワゴン車がみじめに見えました。写真の車はトヨタ・タウンエースです。トヨタのワゴン車は3段階あり、ハイエース、タウンエース、ライトエースです。中間に位置するタウンエースは76年から生産が開始され、ダイハツ工業が生産を担当しています。写真の車は初代のバンタイプ車で、79年にマイナーチェンジされる前の前期型です。この時期、アウトドア体験が流行ったり、野球やサッカーなどで子どもたちを多人数輸送の必要などから、7~8人乗りのワンボックスカーの需要が高まりました。私も必要に駆られこの種のワンボックスカーにいろいろ乗る機会がありましたが、やはり貨物車のバンから派生しているため、乗り心地や使い勝手はよくありませんでした。20号線から林道に入るとすぐに写真の車があります。写真撮影にボッチ高原へ通いだしてから20年以上は経ちますすが、その時からこの車はこの状態でここにあり続けています。晴れた日には雪を被った北アルプスがきれいに見える特等席です。今は放置されている車自体が一つの風景、「廃車のある風景」になっていました。
№1-3 スバル・バード 以前に撮影のため公園で待機していると、ラジコンのバギィー車を操縦して遊んでいる方がいました。私の近くに来たラジコンカーにスバルのマークが見えたので見直すと、ピックアップトラックです。スバルがトラックを造ったなんて聞いたことがありません。精進湖の駐車場で写真の車を見つけた時、そのことを思い出しました。私はスバル・レガシーに12年間24万キロ乗りましたが、本当にスバルがピックアップトラックを造っていることに驚きました。写真の車は左ハンドル、ガラス製のTバールーフで明らかに北米仕様です。調べるとスバル・バードということがわかりました。70年代、北米で若者にピックアップトラックがブームになり、日本からも多く輸出されました。スバルも77年A3型レオーネ2ドアをベースにしてピックアップトラックを造り北米を中心に輸出しました。しかしバードは輸出専用車種で国内販売をしていません。ということは、これは逆輸入車ということになります。81年にAB型レオーネにモデルチェンジされ「ハローツインルーフ」と呼ばれるガラス製Tバールーフが付きました。さらに調べて分かったことは、模型メーカーのタミヤから83年にブラッド・ピックアップ4WDとして1/10スケールモデルを発売していました。このラジコンカーを操縦していたのです。写真の車が置かれているのは、精進湖の湖畔にある廃業したホテルの前です。車もホテルの廃業と同時に廃車になったのかもしれません。私がスバルに乗っていた頃は、あまり売れない車でしたが、今や北米で大人気となり、日本でも人気が出て右肩上がりに増産を続けています。水平対向エンジンと4WDという個性が認められたのでしょう。でもこの写真の車ほど個性が強すぎると日本では売れないのでしょう。廃車になった今でも、すぐに走れそうなほどきれいな状態でした。
№1-4 BMC・BMCミニ 2005年頃の同僚で、私より上背がある(175㎝?)女性がミニに乗っていました。あるとき「今のミニは許せない」と怒っていました。「今のミニはミニではない。どう思いますか」というのです。BWCミニは1959年イギリスで誕生しました。この時代、スモールカーと呼ばれる車が,フランスやイタリヤにもあり、流行でもありました。その中でも初代のミニは、名は体を表し日本の軽自動車より小型でした。オースチン・ミニとモーリス・ミニがあり、850ccのFF式(フロントエンジン・フロントドライブ)横置きエンジン,ミッションがオイルパンの中にあるという、驚きの構造でした。当時の軽自動車がRR(リヤーエンジン・リヤードライブ)であり、普通車はFR式(フロントエンジン・リヤードライブ)がほとんどでした。FF方式によりミニは、小さな車体でありながら広い車内空間を得ることができました。しかもタイヤが10インチ(スバル360は10インチ,現在軽の多くは12インチ)で、床下がシャコタン並みの14センチでした。その時私は床下20センチのレガシーグランドワゴンに乗っていたので、ミニに乗ると地面を這うようで、まるでゴーカートに乗っているようでした。イギリスの自動車産業が衰退してしまい、2000年代に入りドイツで生産されるようになり、今の大きさのBMWミニが誕生しました。デザインは初代のイメージを残していますが、3ナンバー車でサイズはプリウスと同じぐらいもあり、とてもミニの名称で呼べない大きさの車になりました。でも私は、リアドアが2枚の観音開きになっているワゴン車(ミニ・クラブマン)のデザインが大好きなので、今のミニを許してしまいます。三浦半島先端にある諸磯海岸からの撮影の帰りに写真の車を見つけました。廃車となったこのミニは、今も大切にこの家のシンボルとして働いているのがわかります。ミニはやはり小型であるからミニであり、小型であるミニだから愛され続けるのかもしれません。
№1-5 マツダ・コスモ 東京の環8道路を走っていると、ギリシャ神殿を思わせるおどろおどろしいほど豪華な建物が眼に飛び込んできます。今を時めく建築家隈研吾の作品であるといいます。国立競技場の設計で有名となり、木造を多用したシンプルなデザインをする建築家であると思いましたが、以前はこんな作品も設計していたことに驚きます。できたときはユーノスの販売店として話題になりましたが、現在はそのまま葬儀場になっています。89年、マツダの販売網が5チャンネルとなり、ユーノスはプレミアムブランドと位置付けられ、最初に発売したのがユーノス・ロードスターでした。バブル経済の始まり出した80年代後半に,3代目コスモのセダンを1日だけ乗ったことがあります。東名高速道路をツーローターの13Bエンジンは、滑らかに何処までも加速していきました(何キロまで出したかは秘密です)。写真の車は90年発売のユーノスのフラッグシップとして発売された4代目ユーノス・コスモでツードアクーペのみでした。バブルの真っ盛りに出たこの車は、ロータリーエンジンを3個つなげたスリーローターの20Bエンジンを積み300馬力(公称は280馬力)以上出たということです。燃費もものすごく、リッター1~2キロしか走らないといわれました。そのためロータリーエンジンは、ガソリンをがぶ飲みするという悪評が立ち、人気を失います。写真の車は、20Bエンジンではなく2ローターの13Bエンジンです。その違いは、マフラーが13Bは2本で、20Bは4本(エンジンが3個なのに排気をどう分散しているのでしょう)あります。技術を誇ったマツダも、バブルの崩壊とともに傾いていき、フオードの傘下に収まる結果になり、96年ユーノスの販売チャンネルもなくなりました。韮崎市に「わに塚の桜」という桜の銘木があります。その近くに広大な田んぼが広がっています。その沿道にぽつんと倉庫のような建物があり、その前に写真の車が放置されていました。もしかしたらこの倉庫のような建物は、ユーノスの販売店だったのかもしれません。居住性よりスタイルを重視したツウドアクーペという形式は,今は絶対に売れないでしょう。それをここで売ろうとして、売れ残ったまま放置されているのかもしれません。栄華を誇ったアクアポリスの神殿のように、朽ち果てるまでここに放置され続けるのかもしれません。
№1-6 メルセデスベンツ・W1162018年もドイツ車の売れ行きは好調で、ベンツは5年連続で1位であると今朝の新聞に書かれていました。販売元のヤナセは、VWの販売権を失い一時は低迷しましたが、今は我が世の春を謳歌していることでしょう。友人が1千万円のベンツを購入して、初めて乗るとき異常な緊張をしたと言っていました。血と汗を流しやっと手に入れた憧れのベンツ、そのマークが購入者の気持ちを満足させるのでしょう。しかし、ベンツのラジエターグリルにデカデカとマークをあしらったデザインは、成金趣味で下品だと思う方もいます。そんな国産車に物足りない車好きは、以前はBMWを愛車にしたものです。60年代ごろのベンツは、エンブレムも小さく「貴婦人」と呼ばれ上品な車でした。その流れをくむ写真の車はSクラス最初のモデルW116で、72年~80年にかけて生産販売されました。発売当初は2,8L 直列6気筒エンジンでしたが、V8気筒3,5L 4,5L 6,9L へと大排気量車も発売され、47万3千台生産されました。まだまだこの頃のベンツは珍しく、よほどの金持でなければ買うことはなっかっと思います。春になると桜の花を求めて静岡から山梨へと走り回ります。中でも52号線静岡南部町から桜峠を越えて柚野へ行くことが多くあります。その途中、富士川の支流稲子川の奥に大規模な採石場があり、その近くに工場の跡のような広い空き地があり、写真の車が放置されていました。きっとその工場の社用車だったのかもしれません。工場の社長がこの車に乗って、夜な夜な繁華街へ繰り出し、札びらを切っていた姿が想像できます。バブル崩壊で工場が倒産し、車だけが残されたのかもしれません。今、ベンツを購入した方の将来を暗示していなければいいのですが。ヤナセはCMでこんなことを言っています。「ヤナセは車を造りません。乗る人の人生をつくります」
№1-7 ニッサン・プレジデント日産自動車追浜工場には、日曜日に組み立てラインを清掃をするアルバイトがありました。私は学生時代の2年間、ほとんどの日曜日に出かけ、1日働いて1000円(現在は時給が千円)をもらって帰りました。ブルーバードを作るメインのラインの奥に、短いラインがあり、そこでプレジデントが造られていました。プレジデントは60年の発売で、5メートル×1,8メートルという大型ボディで、V8気筒4,414ccと直列6気筒2,974ccエンジンがあり、まさに当時のアメ車でした。グレードにはABCDがありDが最上級で価格も、高級車セドリックが100万円で買えた時、300万円もしました。当時の総理大臣佐藤栄作をはじめ、社用や芸能人など、今のベンツを買う層に多く買われ、パトカーにも採用され中央高速を走りました(出会わなくてよかった)。トヨタの大型乗用車センチュリーは、遅れて67年から発売され、今年3代目が1960万円で発売されました。73年、2代目が発売され、フロントマスクとリアエンドを大幅にデザイン変更し、派手で押しの強いデザインとなり、一層アメリカ車的になりました。82年にマイナーチェンジされ、角型ヘッドライトになります。そして最上級グレード「ソブリンVIP」が発売され世界初のリヤーシートエアーサポート機構やリヤー断熱ガラス、後席内臓ヒーターが付き後席の装備がが充実しました。また、助手席中央が抜けて後席から足を延せる機能も付き、これらはセンチュリーを意識したものでしょう。写真の車はその「ソブリンVIP」です。90年に3代目になり、2003年からはシーマと同一の上級車になりました。センチュリーに乗って富士山撮影に来ている方がいて、栃木からよく来るとのことでしたがその後は会っていません。2代目からは栃木工場で造られましたが、いったい何台売れたのでしょう。ほとんど見る機会がありませんでした。そんな高級車が空き地の草藪の中に、朽ちるのを待つように放置されていました。栄枯盛衰を体現しているかのように。
№1-8 スバル・サンバートライ 60年代中頃だと思います、実家の近所の畳屋さんが、それまで自転車に畳を載せたリヤカーを引いていましたが、サンバートラックを買いました。軽トラックで畳を載せられるのが唯一サンバーだということで、空冷2気筒2サイクルエンジン音をポンポンさせて忙しく走り回っていました。スバルサンバーは61年から販売され、2012年6代目で自社生産が終わりました。空冷エンジン(3代目から水冷2気筒)がリアの床下にあるため、他車はセミキャブオーバーですが、唯一フルキャブオーバーのキャビンでした。そのため荷台が他車よりも広かったのです。前輪がシートの下にあるため、足の置き場が広く、ペタル操作が楽でした。しかも4輪独立懸架(スズキやダイハツのワンボックス車は現在も後輪が固定式リジットアクスルです)で、乗用車並みの乗りごこちです。今は軽自動車でも4輪駆動車は普通に使われていますが、80年にスバルが初めて軽トラックおよび軽キャブバンに設定し、特に悪路走行をする農業従事者から高く評価されました。82年にモデルチェンジされ4代目が発売されます。さらに87年マイナーチェンジされ、商業車用バンとRV車のサンバートライに分かれ、トライはフリーランニングクラッチ型のフルタイム4WDでエンジンも水冷4気筒となります。写真の車はそれを強調したデザインの車で、この頃からしばらくの間、各社の4WD車は車体のどこかに「4WD」と表示することが流行りました。撮影にしばしば行く櫛形山の麓からしばらく上ると、山の中腹に平林という集落があります。集落の一番端の櫛形山林道の入り口にある廃屋に写真の車は置かれていました。専用の車庫に収まっていることから、持ち主に大切にされてきたことがわかります。あの畳屋さんは80年ごろ息子が後を継ぎましたが、スバルが軽自動車から撤退した頃廃業したらしく、店は今は空き家になっています。我が家の畳は、20年ほど前にリホームしたときに替えて以来替えていません。
№1-9 ジャガー・XLX300
80年代、ジョンブルという言葉が流行りました。それは、自虐的なイギリス人の意味より,野卑ではあるが究極のダンディズムとして日本に流布され、コマーシャルで使われて流行語にもなりました。秋谷立石公園に泊まって朝焼けを撮影しようとしていました。まだ暗い未明に、私の車の前に最新のジャガーXEが駐車しました。中から出てきた50代とおぼしき男が三脚をセットし、撮影を始めました。1時間ほどして日の出の前に片づけて出て行ってしまいました。その姿行動がダンディーで、ジョンブルという言葉を思い出しました。「SSカーズ」の創設は1922年ですが、躍進するのは戦後になってからで、45年に社名を「ジャガー・カーズ」とし、ブランド名をジャガーに変更してからでした。48年に発表したスポーツカー XK120が大好評でアメリカへも多く輸出されました。さらに XK140 XK150と相次いで発表され、イギリスの外貨獲得に貢献しました。レースでも大活躍し、特にル・マン24耐久レースでは、51年からライバルのフェラーリ、マセラティ、ベンツ、ポルシェなどを圧倒して3連覇しました。戦後数々の名車を生んだジャガーですが、ジャガーといえばEタイプのロードスターに勝る車はないでしょう。61年に発表されたその美しいスタイルの車は、当時の男たちにとって吉永小百合かEタイプかと思わさせるほど(個人的な嗜好です)夢の様な憧れの存在でした。「いつでも夢を」は、そのころ橋幸夫とのデュエットで流行った歌でした。しかし、イギリス車の栄光も長くは続かず、いわゆるイギリス病になり、ジャガーは89年にフォオードに買収されます。高級サルーンジャガー・XLシリーズは68年に登場しました。写真のジャガー・XLX300は、94年大規模なマイナーチェンジがなされ、角目のヘッドライトから丸目になり登場し、アメリカでは不評のようでしたが、日本では車格の割には安いので、結構売れたようで多く見かけました。伊豆の戸田峠から戸田海岸へ下る途中の、今は廃業した土産物屋の横に写真の車はありました。失礼ながらこんな高級車がなぜここにと思います。イギリスの多くの有名ブランド車は消滅しましたが、ジャガーだけは、今インドのタタ・モータースの傘下に入り盛り返し始めているようです。私にとってジョンブルもジャガーも無縁な存在でしたが、せめて吉永小百合の最新作の映画を見に行くとしましょうか。
№1-10 三菱・ミニカテレビで、衛星写真から探した山奥の1軒屋を訪ねる「ぽつんと一軒家」という番組があります。訪ねると、そこには予想に反した意外なエピソードがあり、面白く毎回見ています。私は山から撮影するために林道を走ることが多く、こんな山奥に人が住んでいたのかと思わせる家に出会うことがあります。そのほとんどは今は空き家になっています。写真の場所は、白谷丸に登る湯ノ沢林道の途中です。今は崩れかけた廃屋になっていますが、下の集落からかなり離れたところにぽつんと1軒だけあります。ここでどんな暮らしをしていたのでしょうか、最初に通った20年以上前からこの状態でした。家の前にある潰れた車は三菱・ミニカです。50年代後半、スモールカー全盛の頃の61年に発売されたのがミニカでした。三菱は技術力が高いからなのか、先進技術をいち早く取り入れることが得意なようです。新発売されたミニカには、今のトヨタプリウスやホンダ車にも採用されている、リアコンビネイションランプの上のスクープドウインドウを最初に取り入れたモデルがありました。この車は84年発売の5代目ミニカです。何かの事情で潰れてしまったから廃車になったのか、廃車になってから潰れたのか、家屋とともに無残な姿をさらしています。先日、三菱の最先端技術を結集したはずのアウトランダーがリコールるされたと報道されていました。三菱の車は、私の知っているユーザーからの評判も悪く、技術に人が伴っていないのかもしれません。日産の傘下に入りましたが、潰れなければいいなと思っています。かってパジェロがパリダカを無敵に走ったように、これからも三菱車が颯爽と走ってくれることを願っています。
№1-11 フォルクスワーゲン・ビートル この車は、誰でも知っているフォルクスワーゲンT1、通称ビートルです。ワーゲンは、2007年トヨタを抜き世界1位の自動車生産をしました。敗戦国日本は朝鮮戦争特需で復興しましたが、敗戦国ドイツはフォルクスワーゲンの生産で復興をしました。ワーゲンは2003年メキシコ工場での生産終了までに2152万台以上を作りました。これは生産台数世界1位で、その中の1台がこの水色のワーゲンです。60年代、日本でマイカーブームが始まった頃、アメリカではセカンドカーとしてワーゲンが流行りました。日本ではファーストカーなので、頑丈であるという利点よりも、反対に価格の割には狭い、クッションが固い,うるさい、空冷で暖房がきかない、トランクが小さいので荷物が積めないなど、国産車に比べて実用性に劣るためそれほど売れなかったのではないでしょうか。ただ、カーマニアがクラシックカーに乗るごとく、ワーゲンという外車に乗っていることを誇りにして乗っていた観がありました。販売元のヤナセも、大衆車として大量に売るのではなく、高級車として扱っていたように思います。そのため、後に販売店がヤナセから独立しました。ここは、撮影地山伏へ行くために通る安部川堤防の外にある畑の脇の草むらです。写真の車はおそらく10年以上前に放置されたのでしょう。放置されたことで頑丈さが証明されたように、朽ちずに堪えています。車は、実用だけで乗るものでもないようです。ワーゲンは乗っていることを楽しめる最後の車だったのかもしれません。この車が朽ちて果てる頃、ワーゲンに乗ていた粋な者たちもいなくなっているのでしょう。
№1-12 ホンダ・アキュラ
帰宅してからこの写真を見て、ごみの中から宝物を発見したように驚きました。ホンダ・レジェンドと思って撮っていた写真の車は、エンプレムがアキュラ(Aの文字)で、当然左ハンドルだったのです。こんな山奥のさびしいところに、こんな車に乗っていた方がいたことに感慨深い想いがしました。80年代、バブルに浮かれた好景気が始まると、高級品が何でも売れました。日産のシーマが飛ぶように売れ、これを「シーマ現象」と呼ばれました。ホンダが出した高級車がレジェンドでした。それを栃木工場で作り、アメリカで「アキュラ」のネームで売りました。それがこの車です。当時語られた開発秘話、高級車を作ったことのないホンダは、高級とは何かを探るために、欧米の高級ホテルを泊まり歩き、高級を学んだそうです。そうして開発された車で、内装にやたら木目張りを使い、シートは純毛のモケット織や革張りが使われました。当時の私は、こんな高級車は買えないので、ホンダのコンチェルトというはるかに安い車、でも最高グレードを買いました。内装に木目調が使われ、革張りシートで、電動サンルーフのプチ贅沢を味わいました。この車は96年発売アキュラRLの98年発売後期型です。この場所は、櫛形山へ行くため、三郷へ抜けるわき道です。川に沿って転々と集落があり、少しばかりの田んぼがあります。谷になっているので、昼でも暗く、空き家ばかりが目立ち、どの家もとても裕福であるとは思えません。だからこそなのかもしれません。こういう高級車に乗って、左ハンドルの外車だぜ! 贅沢な気分を味わっていたのかもしれません。その時の夢が忘れられなくて、処分できずに廃車のままいつまでもここにあるのでしょう。時にはここへ来て涙を流すこともあるかもしれません。そんなモニメントだなんて、考えすぎですね。
№1-13 日産・パオ
先日、ジャンギャバンとアランドロンの映画『地下室のメロディー』を見ました。ジャンギャバンは最高級のロールスロイスに乗っていましたが、アランドロンがこの車でフランスの街の中を走り回ったら、とても似合っていたかもしれません。車の顔がジャンギャバンの顔に似ているように思います。この車は日産パオです。日産マーチをベースにして作られたパイクカー4シリーズの2番目で、89~90年にかけて、注文した人にすべてに販売したので、51657台になったそうです。シリーズでは一番売れました。丸目玉もそうですが、開閉式の三角窓やパイプバンパーなど,61年発売のルノー・4カトレールを意識したレトロなデザインになっています。ところがボディー外板は、新素材の強化樹脂が多く使われ軽量化が図られるなど、最新技術が取り入れられていました。それでもボディーは重く、50馬力のマーチのエンジンでは非力で、いくらアクセルを踏んでもスピードが出ないと言われました。でも車のコンセプトが50~60年代なら、スピードを出して走り抜ける必要もなく、のんびり走ることのほうが似合う車です。ここは高ボッチ高原へ行くのに通る諏訪湖湖畔です。オーナーは写真の車を注文して、しばらく待たされ届いたパオがとても気に入り、まさに愛車として大切にしたに違いありません。塩尻峠をやっとこさ上りきり、高ボッチ高原からの諏訪湖の絶景を眺めたかもしれません。それから30年近く、今でも車はいつでも走れるように前を向き停まったままでいます。もう走れないのに、巌として前を見ている顔が、ますますジャンギャバンに似てくるように思います。
№1-14 日産・フィガロ 1991年第29回東京モーターショーは、200万人を超えて入場者がピークとなり、自動車の持つ魅力に誰もがあこがれた最後の年でした。パイクカー第3弾、写真の車日産・フィガロは、88年モーターショーで発表され、91年に限定2万台で発売されました。その抽選に当たった外れたが話題になるほど人気があり世間を騒がせました。バブル景気が崩壊して、社会的に影響が出始めたこの頃が、中流世帯にとって車に対する魅力もピークであったのでしょう。日産自動車は、戦略が見事に当たり好景気に沸いたのもつかの間、この後奈落の底へ坂道を転げ落ちていきました。フィガロは、4人乗りの2ドアコンバーチブルです。手動ですが、コンバーチブルですからトップがトランクに収納できてオープンカーになるわけですが、オープンで走ったいるのを1度しか見ていません。内装も洒落ていて、オフホアイトの本革シートには赤い縁取りがあり、ご婦人を美しく見せました。パオが男性向けなら、フィガロは女性向けで、ご婦人にはオープンにするのに手間取ったのでしょう。車重が重くなった分、ターボを付け76馬力となったことも人気の一つでした。イギリスでも人気が出て、中古車が高価で数多く輸出されたというので驚きです。日本でも今、100万,200万円越えで中古車が売られていて、時々走っているのを見かけることがあります。139号線本栖湖の入り口交差点近くの屋根がある駐車場に、いつも展示しているように実動車が置かれているのを目にします。あれから30年、日本の社会は中流世帯が減少し、富裕層と貧困層に二分化されました。売れる車もベンツと軽自動車に二極化され、自動車が持つ魅力がなくなりました。それは都会の若者には必要がなく、地方に住む人たちの道具としての車になったからです。日産自動車もルノーに助けられ、ようやく息を吹き返してきています。でも二度とこの手のパイクカーを造ることはないでしょう。写真の車は、20号線御殿場入り口菅沼の交差点の角にある、元コンビニがあった駐車場に放置されています。この淑女を救い出す紳士はどこかにいないものでしょうか。
№1-15 日産・オースチン
環状4号線は、以前は六浦原宿線と呼ばれて渋滞の名所でした。そこにつながる横浜横須賀道路朝比奈インター近くの六浦の自動車修理工場の車庫の中、隣のベンツに負けない面構えのこの車は、この位置に置かれたまま50年近く経ちます。私が学生の頃も、通勤で通っていた頃もここにありました。汚れてはいますが、中をのぞくとレストアに耐えられるほどきれいな状態です。この車は日産・オースチンとして発売されたのが55年です。自動車工業黎明のこの時期、外国車のノックダウン方式による導入がされました。53年いすゞ自動車がヒルマンミンクスをイギリスルーツ自動車から、日野自動車はルノー4CVをフランスルノー公団から、そして日産がオースチンA50ケンブリッジをイギリスBMCから導入しました。その卒業制作として、いすゞ自動車は63年ベレルを、日野自動車は61年コンテッサを、日産自動車は60年セドリックを発売しました。外国から自動車の造り方を教わってから60年、日本は世界一の自動車生産国になっています。当時発売されていたトヨタクラウンはタクシー用に、オースチンは個人オナー用に受け入れられました。当時国産車愛用という政治方針で、政治家の大型外車から国産車に乗り替えが行われ、当時首相の岸伸介がオースチンに乗っている写真があります。58年に国産化された時の値段は85万円(現在の10倍以上の感覚)でした。それはとても高価で庶民に買える値段ではありません。だからこそ今でも写真の車は捨てられずに、当時の栄光のモニメントとして保存されているのでしょう。トヨタの自動車博物館には日産オースチンが展示されています。日産のショールームにはダットサンやフィアレデーはありますが、オースチンは見ていません。コストカッターのゴーン社長は、自分の給料を上げる努力をしても、かっての栄光を展示するような無駄はしないでしょう。
№1-16 日産・シルビア 4代目
1964年第11回東京モーターショーで、ダットサンクーペ1500として発表された車の美しさに惹かれ、晴海の会場へ久しぶりに見に行きました。クリスプカットという継ぎ目のない美しいボデイは、ターンテーブルの上で夢のように輝いていました。翌年、シルビアという名で発売されて、路上で走っている姿を1度だけ見ました。しかし、美しいだけでは売れずに、554台という少数の生産でしかなかったそうです。今は、トヨタ博物館に展示されています。写真の車の車名がわからず、ホイルキャップにトヨタと書いてあることから、86かと思いトヨタの販売店へ3軒行きましたがわからず、ホンダでもわからず、日産でようやく83年発売の4代目シルビア2ドアクーペであることがわかりました。それも、ベテランの販売員が何人か集まってようやく思い出してくれました。あのシルビアがこんな形になっているとは思いもしませんでした。事実、日本での販売は振るわず、アメリカで多く売れたようです。80年代は、ヘッドライトが飛び出すリトラクタブルヘッドライトが異常なほど流行りました。日本で最初に登場したのは、67年発売トヨタ2000GTでした。その後、マツダからRX7、アスティナ、コスモ、ユーノスロードスターが。トヨタからカローラⅡ、AE86スプリンタートレノ。ホンダからアコード、クイント、と続々発売され、当初の空気抵抗の軽減から、単なるデザインだけになっていきました。何しろ、少年向けの自転車までにリトラクタブルヘッドライトが付いたのです。しかしそのために車のデザインがみな同じようになり、飽きられてしまいました。車種が判明しなかったのはこのためでした。シルビアがその名を高めたのは88年発売の5代目で、その美しいスタイルがグッドデザイン賞に輝き、販売台数も伸ばしました。若者が車を持つ夢を持てる時代でした。韮崎市で、桃の花が美しく咲いている景色を求めて桃源郷をさまよっているとき出会った車でした。
№1-17 アルファロメオGTクーペ 67年製作の映画「卒業」で、ダスティン・ホフマン扮するベンジャミンがプレゼントされて乗りまわした車がアルファロメオ・スパイダー・デェツトでした。ジョルジェット・ジュジアーロデザインのその美しい姿は映画以上に魅力的でした。アルファロメオは、日本ではなじみの薄い車ですが、アルファロメオを代表するこの車を記憶している方は多く、今でも人気は衰えません。そんな名車は放置されることはありませんが、この81年発売のアルファロメオGTクーペ2,5ℓV6は、グループA時代のツーリングカー選手権でタイトルを獲得しただけでなく、世界でも多く売れて商業的にも成功した、まさにスーパーカーでした。逗子海岸から長柄の交差点を逗葉新道に向かって走る両側は、以前は畑でしたが10年ほど前から葉山や逗子を代表する店舗の店がぽちぽちできて、洒落た通りになってきました。その中の1軒、その名も「葉山の時間」というレストランの店頭にディスプレイされていました。写真の車もレース用に改造されていました。後ろにあるオレンジ色の車はシトロエンで、古い車ですが世田谷ナンバーが付いているので廃車ではないのでしょう。イタリアの車は、購入代金ほど修理代がかかるといわれたのは昔の話、デザインと性能の良さで世界でとても売れていて、日本でも販売を伸ばしています。そして20数年ぶりにF1に復帰します。ホンダが復帰しても、たいして活躍できなかった二の舞にならなければいいのにと思いますが。
№1-18 ホンダ・NⅡ360
大変な車を見つけてしまいました。横浜市浦舟町の裏通りをバイクで走っていて、信号で止まると、その横の壊れかけたような店舗の奥に写真の車が見えました。68年発売のホンダN360です。これは69年発売のNⅡ(外観が丸形ウインカーから長方形に変わりました)です。理由はわかりませんが、店舗の一角に大事(?)に置かれていました。本田宗一郎は、飛行機を造るのが夢であったそうですが、今、ホンダが発売する小型ジェット機がコマーシャルで流れています。N360は総一郎が造ったゼロ戦ではないかと思います。高性能と廉価で販売台数トップを占める最高傑作だからです。N360は横置きフロントエンジンフロントドライブ、FF方式でした。これはオースチンミニをまねて室内空間を広く取れるためですが、当時のライバルは、フロンテ・ミニカはFR、スバル・キャロルはRRでFFを造る技術はありませんでした。エンジンは4ストローク強制空冷2気筒で、脅威の8500回転で31馬力でした。これはライバル社の2ストローク20馬力とは比べ物にならない高性能でした。しかし性能の確保と構造簡易化を優先したため、騒音や振動が激しく、暖房をするとガソリンやオイルの臭いがしました。しかしそのためライバル車が35~45万であるのに、31万5000円という廉価でした。しかしこれが災いし、69年アメリカで起きた欠陥車問題が日本にも波及し、N360が欠陥車として訴えられました。調査の結果、FFでフロントが重く操縦安定性に欠けていても欠陥とは認められませんでしたが、71年にはモデルチェンジしてライフにかわりました。N360とゼロ戦は高性能でありましが居住性や安全性を軽視、そのための欠陥から短命で終わりました。当時の私は、欠陥車として車社会を訴える側に寄り添っていたので、しばらく車そのものから離れていました。。今は車があることで生活が成り立っています。
№1-19 ベスパ・アぺ 市街地での撮影用に自動2輪を所有しています。スターターのかかりが悪いので、近くのバイク屋さんに持っていきました。店頭にこの車があるのがわかっていたので、ついでに撮らせてもらいました。話を聞くとイタリアの「ベスパ」だそうです。ベスパは名作「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンが乗ったバイクです。廃車とばかり思っていたのに、ナンバーもついた現役の車でした。年に数回は走らすのだそうで、店の親父さんがレバーを引いてエンジンをかけてくれると、ツーストロークのバタバタ音が勢いよく鳴り響きました。30年ほど前に輸入されたものを購入したそうです。その程度の話しか聞かないで帰宅して、後日調べると面白いことがたくさん出てきました。まず、ベスパのエンジンを使って作られた車を「ベスパカー」というそうで、だからこれはベスパカーです。しかしこれはベスパのエンジンを使ったピアッジョ製で「アペ」という車名があります。アぺはミツバチの意味で、それこそイタリアではミツバチのように飛び回っているそうです。それは、14歳以上であれば50ccまでの乗り物は無免許で乗れ、自転車並みに進入禁止の中へも入って行けるらしく、とても便利な乗り物として活躍しているそうです。これを知ったのは、アピに惚れ込み、イタリアまで見に行った人の書き込みを見たからです。なんとこの手の人のNSNに書き込みを沢山見つけることができたのには驚きました。しかも現役でかなりの方が乗っているようで、アぺを愛するコアな集団があることがわかりました。日本へは、ベスパ製のスクーターを取り扱う成川商会が輸入し販売していたそうです。修理屋のおやじさんからベスパのことはあまり聞けませんでしたが、置いてあったホンダカブを修理して走れるようにしたと自慢されました。なにしろ50年前の初期型だそうで、9万円で売れたとのこと。私のバイクの修理代は4万2千円でした。そろそろバイクをやめようと思っているので、痛い出費でした。
<追伸>この後見た「ローマの休日」で注視していると、オードリーヘップバーンが宮殿から抜け出すときに乗った洗濯屋の三輪車が、大型のアペであることがわかりました。ローマの街を走り回ると、何度か同じ大型のアピを見つけることができました。
№1-20 ミニカー3台 ①BUBUシャトル
②マイクロ1
③アビー
日本にもベスパカーのような50㏄以下のミニカーがあります。セブンイレブンの店頭に配達用に洒落たスタイルの小さな車が止まっているのを見かけたことがあると思います。それはトヨタが発売しているEV車コムスです。時代の要請で、ミニカーが再登場しています。日本のミニカーの始まりは、光岡自動車が82年にBUBUシャトル(ブブシャトル、①の車)を発売しで、当時少しのブームになりました。それは、原付免許で乗れ、税金など維持費も原付並みに安かったからです。しかし道路で出会うと、30~40キロ程度でちょろちょろ走るので、抜くことができずに渋滞になり、普通車にとっては迷惑な存在となりました。85年に改正され、普通免許でなければ乗れなくなると、ブームは下火になりました。光岡自動車からはその後MC-1(マイクロ1、②の車)が発売され、シリーズがMC-6まで続き、2007年にミニカーからは撤退しました。同時期タケオカ自動車から販売されたのがABBEY(アビー、③の車)で、現在も販売されています。そのほかにも何種類かのミニカーが極少数販売されているようです。コムスのようにEV(電動車)となり新たに発売された車もあり、またブームになるかもしれません。私が見つけた3台とも、郊外の過疎の地です。そこで、店舗がなくなり困っている老人の買い物車として役立つかもしれません。ただし乗っている人の弁「他人からの注目の的になり、乗り始めた頃は勇気が必要でしたが、最近では気にせずに乗っています。夏は暖房、冬は冷房と過酷な条件の中で乗る必要がありますが、結構いいです」
№1-21 ユーノス・ロードスター
子供の頃からオープンカー(ロードスター)に憧れがありました。光を浴び、風を感じて走る姿にワクワクするときめきを覚えたからです。しかし、いざ車を購入するとなると、オープンカーは実用的ではありません。それでもあきらめきれずに2台目からは屋根の開く車を買い続けました。それなのに家族は開けることを嫌がるので、一人で乗る時だけ開けて走りました。ところが冬は寒く夏は暑くて、開けて快適に走れる日などほとんどありません。唯一良かったのは、桜のトンネルを通る時と、山の上から星空を見るときだけでした。だからでしょう、せっかくのオープンカーなのに、オープンで走っている車にはめったに出会いません。幌をかけたりハードトップを載せて走っています。89年マツダにユーノス店ができ、第一弾車種としてユーノスロードスターが発売されました。この種のライトウエイトスポーツカーを待っていた人が多くいたのでしょう、翌年には9万3626台も売れて驚くほどの大ヒットになりました。このころ出たスポーツタイプの車の多くは消滅しましたが、2015年には4代目が出て、現在まで人気を維持して続いています。2016年には累計生産台数が100万台になったことが発表されました。白糸の滝から田貫湖へ入る道の脇にある家の庭で、写真の車を見つけました。田んぼを前にした広い庭の隅に、2台が並んでいました。1代目のユーノスロードスターです。レースに出場したのでしょうか、改造の跡が見られます。青の方は、フロントがクラッシュで壊れています。新発売された頃のコマーシャルを今でも覚えています。それは、霧の深い夜、リトラクタブルヘッドライトが開いて点き、目覚めるように走り出すのです。廃車になった今、もう二度とライトが開いて目覚めることはありませんが、在りし日を語りながら満足した余生を送っているようでした。
№1-22 ホンダ・S2000
日本メーカー製車で一番高価な車名を知っていますか。それは約2300万円します。それは2017年発売のホンダのNSXの2代目です。製造はアメリカなので正確には日本製ではありません。最高出力581PSという超モンスタースーパーカーです。いかにもアメリカ人好みのギラギラした派手なスタイルのこの車をまだ一度も見ていません。どこへ行けば見ることができるのでしょう。90年発売のNSX1代目は、シンプルなデザインの日本製で、当時としては最高価格の800万円でした。ホンダが最初に発売した乗用車は、62年発表したS360で発売価格は45万9000円(発売されませんでした)、実際にはS500として63年に発売した2座のスポーツカーです。その後S800として70年まで発売されました。このシリーズの車は、各地でのイベントにでも参加するのでしょうか、時々走っているのを見ます。ホンダは、今でこそファミリーカー中心のメーカーですが、スポーツカーから出発しているのです。写真の車は99年発売のホンダ S2000です。29年ぶりに復活したSシリーズでも、デザインに個性がなくNSXの廉価版ぐらいに思っていました。しかし、創業50周年を記念して発売した車であるというだけあり、込めたポテンシャルは高いようです。2ℓで250PSを9000回転で発生させるというのですから。そのため各地のカーレースで活躍したようです。価格は338万円で、2009年まで発売されました。今は個人の家の広い駐車場のようなところに廃車となって置かれていますが、かってはユーノスロドスターと優勝を争てレースをしたこともあるのかもしれません。
S2000を書いた翌日、忍野村を走っていると、なんとS800が前を走っていました。偶然にもダイハツコペンとのすれ違いです。
№1-23 トライアンフTR4 子供の頃、オープンカーに憧れるとともに、ボンネットからルーフにかけてラインが引かれた車が好きでした。今でも普通のセダンにラインが引かれた車を見ることがありますが、乗っている人をとても羨ましく思います。でも、ラインの意味を考えたことがありませんでした。今は良い時代で、パソコンで検索すると簡単に教えてもらえます。このラインを「レーシングストライプ」といい、レースに出場する車は国別に色が決められているので、同じ国から複数出ると識別に困るので色違いのラインを引いたのだそうです。例えばムスタングやカマロのように、やがて市販車にもラインが引かれ、レースに出場するほど速い車を現すようになりました。64年、ホンダがF1に初参戦したとき、割り当てられた色は白、アメリカも白、そこでボンネットに赤い大きな丸を日の丸のように無許可で書き入れたのそうです。あの65年メキシコGPで初優勝した日の丸の車体には、こんなエピソードもあったのです。同じ頃、日活青春映画が隆盛期でした。小林旭、宍戸ジョー、赤木圭一郎、石原裕次郎ら青春映画スターが乗ってポーズを付ける車がトライアンフTR3,TR4であり,MGA,MGBなどのライトウエイトスポーツカーでした。なんとその憧れのトライアンフTR4にレーシングラインが引かれた車を見つけました。白い車体に青のラインはアメリカ人好みです。ここは個人の家の前にある広い駐車場です。なぜかバンパーがなく、 フロントウインドーもありません。かってはレースに出て活躍したのでしょうか。トライアンフは、84年に自動車生産を終了し、イギリスのライトウエイトスポーツカーも消滅します。日活の青春映画も60年代までで、映画そのものが80年代に斜陽化していきます。今もレーシングラインを引いた車に乗っている人は、いまだ青春の栄光を引きずりながら走っているのかもしれません。
№1-24 トライアンフ・スタング
不思議なこともあるものです。スタッグが私を呼んだのです。もう千回近く通ったであろうパノラマ台から山中湖へ向かうテニス場の横、いつものように通り過ぎようとしたとき、草藪の奥に、チラッと黄色い色が光ったのです。車を止めて藪に入るとスタックがいたのです。今まで一度も気づかなかったのに、しかも帰宅したらトライアンフTR4を書こうと考えていた時なのです。美人薄命といいます。トライアンフ・スタッグはまさに自動車の美人薄命であったといえます。ベンツ・SLに対抗してアメリカ向け高級スポーツカーとして70年に発売されたのがスタッグでした。コンバーチブルとクーペのボデイはジョバンニ・ミケロッティがデザインし、その美しさに各国で大好評になりました。前の顔と後ろの顔が相似であるというミケロッティの野心作でした。しかしV8エンジンが不調で、トラブルが多く発生してしまいました。その結果、78年に生産終了までに2万5877台製造され、6780台が輸出され、その内アメリカへは2871台でした。英国国内には約9000台が現存するそうです。日本へはおそらく千台にも満たない数の輸入で、現存はとても少ないことでしょう。そんな希少な車が藪の中で、屍を野ざらしで居たのです。「野ざらし」という落語があります。釣りに行くと河原に骸(むくろ)を見つけ、お酒をかけて弔うのです。私もそれをまねて、持っている焼酎を少しかけて弔いました。これこそ私がこの「廃車のある風景」を始めた目的です。しかしその夜、落語のように美人の幽霊は現れませんでした。車じゃダメですね。
№1-25 GM・カマロ アメリカ人はスポーツカーが大好きなようです。トライアンフがそうであったように、イギリス、イタリア、ドイツとヨローッパのスポーツカーはアメリカを目指して作られます。日本の日産も69年にフィアレデーZの初代を発売して78年までに総生産55万台、国内は8万台で、ほとんどはアメリカへ輸出されました。日産はこの車の成功で海外進出の活路を開き、輸出の日産と名乗りました。このスポーツカーブームを創ったのはフオードが64年に発売したムスタングでした。ムスタングの成功に対抗してGMから67年に発売されたのが初代カマロでした。この車は82年発売の3代目カマロです。2代目まではムスタングの対抗馬でしたが、3代目はヨーロッパを意識したモデルとなり、エンジンが直4、V6、V8と揃えられました。V8の5ℓエンジン車が、ドロドロドロドロと大排気量から出る低音を残して走り去って行くのを何度か見ました。カマロの生産のピークは3代目の84年で25万台も売れる大ヒットになりました。日本ではバブル景気の真っ最中です。写真の車の後ろの事務所はその頃営業していたのでしょう。商売も順調に成績を残し、景気のいい浮かれた気持から購入したのがこのカマロだったのかもしれません。ところがバブルが崩壊し、不景気が訪れ事務所は閉鎖され、今は事務所と共に朽ち続けています。ムスタングは初代のイメージを残しながら現在まで続いていますが、カマロは1代ごとにがらりとイメージを換えたモデルチェンジを行ってきました。6代目になる今の車は,増々大きく無骨になり、スポーツカーの軽快感がなくなってしまったように思えます。トランプ大統領がいくら貿易の不均衡を叫んでも、この車では今の日本で売れることは少ないでしょう。
№1-26 メルセデスベンツ・500SL
私の家の隣にアメリカ人が住んでいます。その方が「日本ではどうしてベンツが高級車であるるのかわからない。アメリカではベンツよりホンダの方が高級車だ」というのです。もちろんその方はホンダに乗っています。それでも日本人の誰でも「いつかはベンツ」と思っているのではないでしょうか。ベンツの中でもSLはアメリカ向けに開発された高級スポーツカーでした。しかも初代300SLは、ガルウイングという特異な姿から神格化された存在になりました。レース用に開発した車を市販して、クーペが1400台、ロードスターが1858台生産されたそうで、そのうちの1台を故石原裕次郎が所有していたことでも有名です。しかしその性能から多くの死亡事故が起き、Widowmoker(未亡人製作機)と呼ばれたそうです。裕次郎も多彩な才能から芸能界をフルスピードで走り抜けてしまいました。SLはスポーツラグジュアリーの意味で、ソフトトップのロードスターと着脱式のハードトップがあり、SLCはクーペです。この車は3代目で71年~89年まで23万7千台造られて3分の2はアメリカへ輸出されました。写真の500SLは80年に発売されたモデルです。ソフトトップのロードスターとクーペがありましたが、見るのはクーペが多くソフトトップは珍しいのではないでしょうか。このロードスターは、中規模の旅館の前にある広い駐車場の隅に放置されていました。かっては後部座席にお客を載せて、幌をたたんで風を切って走らせたのでしょう。ベンツをはじめとして、最近の車のデザインは、やたらに曲線を使いギラギラとした派手なスタイルが多いように思います。しかしこの頃のベンツはシンプルなデザインで好きです。特にこの後ろからのスタイルが好きなのですが、実は前が少しつぶれているのです。80年代は、日本車はまだまだ技術でもデザインでもかなわないほどベンツは高級車で、気品のあるスタイルであったと思います。
№1-27 スズキ・キャラ バブル期の80年代、別荘とはとても言えないミニセカンドハウスが流行り、房総方面に犬小屋みたいなミニハウスが庭付きで安価で売りに出されたのを見ました。車も同じ現象が話題になりました。セカンドカーです。アメリカでワーゲンや日本の車がセカンドカーとして売れているのをまねたものです。候補になったのは軽の2シーターのミニスポーツカーです。とてもスポーツカーと呼べないので、ミニスポーカーと呼称されました。それが「平成ABCトリオ」と言われた車です。Aがマツダ・AZ-1、Bがホンダ・ビート、Cがスズキ・カプチーノ。中でもAZ-1は1番の名車であり迷車でもありました。それは軽で唯一無二のガルウイングドアにあることはいうまでもありません。ベンツ300SLのガルウイングドアはレーシングカーにおける構造状の必然性がありました。しかしAZ-1は単にガルウイングの車を造るだけが目的としか思えません。そのためにスケルトンモノコックという特殊な構造で可能にしました。しかし、横転すると大変で、ドアヒンジが天井にあるためドアが開かなくなるので、ガラスを割るハンマー付きでした.問題はこれだけではありません。サイドシルが高く乗るのが大変で、まるでバスタブに入り込むようです。雨降りにドアを開けると、屋根の雨がバシャっと落ちてきます。メーターは中央に大きく回転計、左に小さく速度計と、全く反対です。シートはバケットでスライドしますがリクライニングしません。そうです、これはレーシングカー仕様なのです。まだまだ使いにくいことがいっぱいのこの車を愛してやまないオーナーが曰く、「ロマンに乗っている」のだそうです。AZ-1は92年~95年まで販売され、わずか4392台が販売されました。しかしこの写真の車は、たぶんスズキ・キャラです。マツダからスズキへODMで供給され、違いはバンパーにホグランプが付いています。写真の車には、バンパーにホグランプ用の穴が開いています。キャラはわずか531台発売されました。もしこれがキャラなら貴重な1台です。白糸の滝へ行く通りの林間の間にポツンと1軒だけある家の庭に、不思議な状態で保管されています。房総方面に造られたミニセカンドハウスも、今はほとんど住む人もなく,空き家になっているそうです。ABCトリオも、発売した90年代はバブルが崩壊したため、売れ行きも悪く、とても成功したとは言えませんでした。今また軽のスポーツカーが発売されています。今度はスタイルも性能もそれなりに備えているので、セカンドカーとして定着するでしょう。
№1-28 スズキ・カプチーノ平成ABCトリオのC、スズキ・カプチーノです。この車の所有者はよほどカプチーノが気に入ったのか赤い1台を乗りつぶして、シルバーの2台目を今乗っているのです。カプチーノは91年に発売されました。ロングノーズ、ショートデッキの古典的なスポーツカーのスタイルで、フルオーオープン、タルガトップ,Tトップがあります。FR駆動でプロペラシャフトを通すセンタートンネルと厚いサイドシルから、「世界一居住空間が狭い車」と言われました。そんな車でもオーナーの気持ちを離さないのは性能にあるようです。DOHC64PSターボエンジンが700㎏という軽量ボデイを180㎞の最高速度まで引き出し,マツダロードスターより速いというので驚きです。しかも28万㎞乗ってもまだ乗り続ける人までいます。月に1度集まるオーナーのグループが北関東にあり、毎回20台ほど集まるそうです。98年に生産が終了し、2万6583台生産されました。ダイハツ・コペン2代目が14年、ホンダS660は15年に復活しました。カプチーノも今年2018年には発売されるという情報が流れています。
№1-29 スバル・アルシオーネ この頃のマーク
甲府から精進湖へ行こうとナビにしたがって進むと、突然道が狭くなり、ナビは指示するのですが前へ進めそうもありません。仕方なく少し戻って脇道へ入ると、川の土手に出ました。そこにこの車がありました。2代目スバル・アルシオーネです。近頃の車は面白くないと思えてなりません。ニューモデルが出ても、販売店まで行って乗ってみようとは思いません。最近の若者の自動車離れから販売が低迷しているので、売れる車を造ろうとしている努力はわかりますが、それがみな同じような車になってしまっています。今思えば、80年代は面白い車が次々と出た時代であったと思います。前のAZ-1がそうであり、トヨタ・セリカ、ホンダ・プレリュードなどのスペシャルティーカーが走り回っていました。写真のスバル・アルシオーネもスペシャルティーカーであり、名車であり迷車でもありました。メーカー自身が何とか売れる車を造ろうとあれこれ考えて特徴のある車を造ろうとしていました。しかしスバルはこの時代、主軸のレオーネが販売不振で、水平対向エンジン、4WDという他社にはない技術を売り出そうとすることに迷っていたのではないでしょうか。その結果発売したのが1代目アルシオーネ2ドアクーペでした。この車はレオーネをベースにして、徹底的に空気抵抗を減らしました。ドアノブにふたが付いたくらいです。それでも販売は振るわず、91年に2代目アルシオーネSVXに引き継がれました。写真の車はほこりだらけでわかりにくいですが、ジウジアーロデザインの美しいボデイスタイルをしています。特徴はミッドフレームウインドウという屋根までドアがあり、窓が開けられないために、小窓があるのがわかるでしょうか。主にアメリカ向けでしたが、この車も販売は振るわず、国内では5884台の販売で96年に姿を消しました。当然会社も経営危機になりました。ところが今、個性のない車のばかりだからでしょうか、AZ-1もアルシオーネも中古車市場で大人気で、プレミア価格で販売されているそうなのです。その人気から、アルシオーネもが復活するのではないかといううわさまでが出ているくらいです。№1-30 日産・フェアレディーZ
4代目フェアレディーZのイメージは獲物を狙う動物で、静止した状態でも躍動感のあるワイド&ローのスタイルであるといいます。廃車になったこの車は、今でも自転車の林の中から前を通る獲物を狙っているように見えてきます。ダットサンスポーツは59年にダットサントラックのシャシーを使って造られました。61年にはフェアレディー(美しいお嬢さん)として発売されました。69年に、ジャガーEタイプやポルシェ911に匹敵する車として Z が発売されました。この車4代目フェアレディーZは、89年発売でバブル経済の絶頂期と崩壊、さらには日産の経営悪化をも経験して2000年まで造られました。街外れの幹道沿いにある、今はもう営業をやめている自転車屋の物置に写真のZはありました。高価なZに乗って営業するほど、20年以上前には繁盛していた店だったのでしょう。セクハラで辞任した財務官僚が「はめられた」と捨て台詞を吐いた事件がありました。美女が男を不幸にするのは歴史が明らかにしています。Zという美女は、男に憑りつき、どれだけの男を不幸にしてきたのでしょうか。私は、美女と縁のない人生を送ってきたのでので、何とかこの歳まで生きることができました。写真のZの持ち主は、Zと共にどんな人生を歩んだのでしょうか。今もこのZは、前を行く獲物を狙っていますが、もはや動き出すけはいはありません。
№1-31 トゥクトゥク ここらで視点を変えて、私がタイへ旅行したときに撮った写真を紹介します。というのは嘘で、52号線を走っているときに見つけた、少し変わった車です。この車はナンバーが付いた現役の車で、ブブと同じミニカーの分類です。外国等行ったことなどない私は、この車が全く分からないので、屋根の上に「TUKTUK」とあることから検索すると、いろいろなことがわかりました。タイで造られた車でエンジンの音から「トゥクトゥク」という名で、タイではタクシーとして活躍しているそうです。「基本的に窓やドアはなく屋根のみで、開放感溢れる三輪オートバイのような乗り物です。見た目がとても愛らしく、カラーやパーツでアレンジも自在、手軽に異国感を味わえます。」とは輸入販売している会社の説明文です。200㏄の側車付軽二輪車、サイドカーに分類されるので、3人乗りで高速道路も走れます。三輪トラックで75万円です。実際に300台ほど輸入されていて、姫路市や石垣島の観光地でレンタカーに使われているそうです。ただし、タクシーとして営業には使えません。この車が、どうしてここにあるのかはわかりません。昔、日本に来たアメリカ人が霊柩車を見て「これが欲しい」といったそうです。今はあまり使われなくなった、あのお寺の屋根をした金ぴかの霊柩車です。これこそオリジナルの日本の車だと思ったのでしょう。確かにオリジナルですが。トゥクトゥクがそうなように、自動車はその国の文化として特異に発達するものです。同じ3輪タクシーが、インドではオート・リキシャー,フィリピンではトライシクルと呼ばれています。特にフィリピンでは、日本人が驚くほど派手にデコレイションして走り回っています。日本でも、派手派手に電飾や飾り立てた「トラック野郎」にすれ違うことがあります。
筑波山へ行くとき通ったつくば市の市街地にあったタイ料理店の駐車場に展示してありました。
№1-32 三菱・ミニカトッポ 軽自動車も外国から見れば変な車に見えるでしょう。その中でも変を売りにした車が三菱ミニカトッポでした。これまでの日本車は、メーカーもオーナーも車高が低ければ低いほどかっこいい車だと思ってきた傾向がありました。当時TV放送されていた「新車情報」で、自動車評論家の三本和彦氏が新車に乗るたびに拳を頭の上に乗せ、幾つ分あるかと測っていました。当時の普通乗用車の車高は1500㎜以下,軽で1400㎜以下が普通でした。そこに90年、車高が1765㎜のトールワゴン,ミニカトッポが発売されました。両手を伸ばしても天井まで届かないほど広々とした空間の車でした。パソコンで検索すると、浅野温子が演じるミニカトッポのコマーシャルを見ることができます。「変ね、変ね、変なヤツほどおもしろい」と、今も若いままの浅野温子を見ることができます。ボデイの下だけはミニカと同じで、ガラス部分だけを伸ばした形は確かに奇妙です。変をかわいいに変えて、女性受けを狙った個性が受けて売れたようです。写真の車は93年発売の2代目で,98年まで造られました。この後、トールワゴンという軽自動車に変革をもたらす先駆けとなる車となりました。
№1-33 ダイハツ・ミラウォークスルーバン トヨタ・クイックデリバリー
これはカスタムカーではありません。変な車の極みですが、三菱の量産車です。6代目ミニカの派生車で,ミラウォークスルーバンで84年~98年まで造られました。下の車もトヨタの量産車で、クイックデリバリーです。ウオークスルーバンという車種があります。クロネコヤマトの宅急便の配送車をご存知だと思います。あれがウォークスルーバンです。下の車はトヨタクイックデリバリーの1代目で82年発売されたものです。ウオークスルーバンは、運転席しかないのが基本で、車から降りることなく自由に荷室と行き来することができます。また、狭い所でも乗降ができるように、折り戸になっています。変な車どころか、通販を利用する今の生活にとっては重要な車です。ミラにはミチートというのがあり、フロントウインドウが曲線で、荷室の屋根がガルウインドウのように上に開くおしゃれなウオークスルーバンがありますが、見たことはありません。移動販売車などに使われたようです。ミラウォークスルーバンは長い間販売されたことから、それなりに需要があったのでしょう。今でも中古車市場で高値で取引されています。今、この種のバンが販売されていれば容易にキャンピングカーに改造できるので需要があるかもしれません。
№1-34 ティヨール・タンガラフランスから来た変な車を見つけました。№1-23で取り上げたトライアンフと並んでいました。ナンバープレートが付いていますが、幌が破れて雨ざらしのため、完全に廃車です。名前はティヨール・タンガラといいます。おそらくご存じないと思いますが、私も初めて知る車です。58年にラウル・ティヨール氏が設立した会社で,ルノーやシトロエンからフレームの供給を受け、ボデイを懸架する自動車会社で、日本の光岡自動車と同じです。タンガラは、シトロエン2CVのフレームにジープ風のFRPボディを載せて1542台造られたものを、91年に名古屋のオートリーゼンが19台輸入しました。それがどんな経路でここまで来たのでしょう。中古車として非常に貴重で、数十万円で引き取るという業者が居ます。いろいろ調べていくと、タンガラを所有している方のページを見つけました。曰く「当然ですが、走らせても2CVと何ら変わるところがありません。ジープ風のボディは見てくれだけで、岩や立ち木にぶつけたらたちまち割れてしまいそうです。FRP製の荷台も補強してありませんので、人が立つとプワプワとたわみます。これを作った人は何に使うつもりだったのでしょう。買った私も何に使うつもりなのか謎」。謎の多い車を、謎の多い場所で見つけました。
№1-35 トヨタ・セルシオ 時計にガラスの覆いがあるように、車のメーターにもガラスの覆いがあります。50年以上も前のこと,車名は忘れましたが、ガラスの覆いがない車が出ました。指で針を触ろうとすると、やはりガラスはありました。ガラスが斜めにはめられているので、あたかもガラスが見えない無反射ガラスの登場に感心したものです。2年前、スズキエブリーを購入して、エンジンをかけて最初に驚いたのは、メーターが光ったことです。自発光メーターです。メーターの後ろにライトがあるので数字自体がが光るように見える自発光式メーターを最初に付けたのはセルシオでした。80年代、日本車が多くアメリカへ輸出されましたが、多くが大衆車でありセカンドカーとして使われていました。円高という背景から、米国の高級車キャデラックやリンカーン、西ドイツのベンツやBMWに対抗して発売したのが「レクサスLS400」で、89年セルシオの名で日本でも発売されました。日産シーマが国内向けに対して、セルシオは 北米向けに開発された車で、「いつかはクラウン」を超える個人で持つ最高級車として発売されました。シーマがターボを使ったパワーが売りでしたが、セルシオは静粛さと乗りごこちでした。あれから25年。軽自動車にも徐々に高級車の装備が使われるようになってきました。私のエブリーは、ターボが付いているのでそれなりにパワーがあります。エンジンは助手席の下にありますが、まずまず静かです。セルシオはエアーサスペンションです。負け惜しみではありませんが、エアサスのフアフアした乗りここちは好きではありません。しかしエブリーの乗り心地は高級車にはとても及びません。段差に乗り上げると、ひっくり返るのではないかと思えるほどです。写真のセルシオは,89年発売の1代目で、当時620万円しました。3代目2006年で販売を終了しました。今は駐車場になっているこの場所は、以前は鉄工所の工場であったようです。その社長が自家用車として乗り回していたのでしょう。私が写真を撮っていると、一人の老人が後ろを通り過ぎて工場の後ろにある母屋に入っていきました。この人が社長だったのかもしれません。閉鎖されている工場が最高利益を上げたとき購入したのがセルシオだったのでしょう。今はそのセルシオとともに余生を送っているのでしょうか。
№1-36 日産・セドリック日本の高級車は,昔からトヨタクラウンと日産セドリックでした。セドリックは60年純国産中型高級車として生産が始まりました。初代はモノコックボデイの縦目で個性的なスタイルで好きでしたが、不評だったらしく2年で横目のスタイルにマイナーチェンジしてしまいました。この車は、71年発売の3代目で4ドアハードトップです。クラウンはフレームがあることで頑丈であることからタクシーキャブとして多く売れましたが、この車になってやっと販売台数がクラウンを抜きました。それは4代目クラウンのデザインが不振という敵失によるところが大きかったのですが、アメリカで流行していたコークボトルラインのセドリックのデザインがとても魅力的であったことにもよります。私は、この次の4代目のセドリックにたびたび乗る機会がありましたが、乗り心地がフワフワしているので1日乗ると首が痛くなりました。クラウンは今も販売されていますが、セドリックは2004年10代目で生産を終了しました。写真の車は,本栖湖から下辺へ下りる途中に放置されています。安倍峠に通いだしてから30年近くになりますが、当然ですがこの車は放置され続け、それを見ながら通り過ぎました。
№1-37 プリンス・グロリア若い方はご存じないかもしれませんが、60年代、日本に乗用車を造る自動車会社が9社ありました。トヨタ、日産、三菱、プリンス,富士重工(スバル),ホンダ、マツダ、スズキ、ダイハツ、それに乗用車生産をあきらめたいすゞと日野がありました。自動車大国アメリカでさえビックスリーといわれるGM、フオード,クライスラーの3社(54年から87年までアメリカンモーターズがありました)しかありません。自動車の貿易が自由化されるに際し、多すぎると共倒れになるというので通産省によって合併が画策されました。その結果、66年日産にプリンスが無理やり(?)吸収合併がなされました。そして、当時販売されていたグロリアとスカイラインが車名として残りました。写真の車は、62年発売の2代目プリンス・グロリアの63年発売されたグロリア・スーパー6です。国産初のSOHCエンジンで、唯一の6気筒エンジンを搭載したモデルです。(64年第2回日本グランプリで、この「G7型」6気筒エンジンを載せたスカイラインに生沢徹が乗り、式場壮吉乗るポルシェ904とが戦った話はあまりにも有名です。そこから始まったスカイライン人気が現在の日産GT-Rを誕生させました)ワイド&ローのボデイにクロームメッキのモールを多用したきらびやかなデザインに圧倒されました。優れた性能、美しいデザインでしたが販売は振るいませんでした。そのため見かけることが少なっかたのですが、あるところにいつも駐車していました。それを通学途中の電車の車窓から毎朝眺めていたのを今でも覚えています。ご存知のように、今はトヨタグループ、日産グループ、ホンダの3グループに収束されました。もしグロリアの販売が好調だったら、プリンス自動車は現存していたかもしれません。この車は、忍野村の忍野八海に近い農家のガレージに保存されていました。ほこりをかぶっていますが大切にしているようでした。そこにはどんな物語があるのでしょう。
№1-38 ニッサン・プリンス・グロリア プリンス・グロリアは,58年第5回全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)に「スカイライン1900」として発表され、59年にグロリアとして発売されました。車自体はスカイラインと共用でした。2台目から専用ボディとなりました。3代目は合併によりニッサン・プリンス・グロリアになりました。4代目からセドリックと同じボディの姉妹車になります。写真の車は95から99年まで発売された10代目です。セドリックとの差別化でグランドツーリッスモとして丸形4灯ヘッドライトが伝統になりました。
№1-39 ホンダ・セイバー写真の車はホンダ・セイバーです。なじみのない車ですがアメリカ製の日本車で、誕生までが少し複雑です。ホンダの高級車はすでに書いていますが、そのレジェンドとアコードの中間として89年に誕生したのがアコード・インスパイヤーでした。81年2代目アコードの姉妹車としてビガーが発売されました。95年2代目のインスパイヤーの姉妹車であり3代目ビガーの後継車としてセイバーが発売されました。この車はその2代目でアメリカ工場の生産になり、逆輸入車となりました。ホンダは高級車にはやたらと木目を使うようですが、このインスパイヤーやセイバーも木目のインパネを使い高級感を出しています。富士山の周りには別荘地が多くあります。この場所も伊豆高原にある別荘です。入口に廃車が置き去りになり、別荘ももちろん廃屋です。廃屋の別荘は見かけますが、廃車までを放置した別荘は見ていません。きっとセイバーが誕生以上に複雑な事情があったのかもしれません。
№1-40 BMW・E34
以前住んでいた隣の方は、旧型のBMWに乗っていました。私が車で帰宅しても妻は気づかないのに、隣の車だと気づきました。低音でかなり大きい音がしました。車内でも音は大きく、振動が微妙にしました。それを6気筒エンジン特有の「シルキーサウンド」といってありがたがっているようでした。私の同僚が中古で購入した最近の車はとても静かでしたが、排気音は低音でした。BMWはベンツのような成金趣味ではなく、湘南ボーイが乗り回す(してたかどうかはわかりませんが)ハイセンスな車としての憧れがありました。若いころ、BMWを「ビー・エム・ダブル」と言う人がいると、「いもだなあ、ベームヴェー」と言って粋がったものです。現在は81年からドイツ読みから英語読みの「ビー・エム・ダブリュー」という呼称に統一されています。BMWくらい頑固一徹な自動車会社はないのではないでしょうか。古い車も新しい車も、一目でBMWであることがわかります。それはフロントグリルのデザインで、キドニーグル(腎臓の意味)グリルで統一されているからです。そして4目のヘッドライト(2つは補助灯)、6気筒エンジン、フロントエンジンリヤードライブは変わることがありません。日本のメーカーもこれをまねして、車種に統一感を出そうとしています。マツダとスバルがそうで、ともに成功して売り上げを伸ばしています。日産が最近になってグリルを統一しようと無理をしています。写真の車は、静岡の奥、芝川の奥の家がまばらに建っているような地域の家の広い庭にありました。隣にはニッサン・セドリック・グロリアの廃車がありました。この車は98年発売の5シリーズ3代目E34ではないかと思います。何しろどの車も形が変わらないので、写真だけでの識別が難しいのです。
№1-41 メルセデス・ベンツ・W114私が初めて車を買ったのが赤いホンダ・シビックでした。ほかの色は2,3か月待ちで赤ならすぐ納車するというので、せっかちな私は決めてしまいましたが、赤にしたことを後悔しました。最近こそベンツでも安いAクラスに赤い車に乗る若い方を見ますが、70年代の今以上高嶺の花であり、特別な人が乗る黒いベンツしかないような時期に、いったいどんな方がこの赤い車に乗っていたのでしょう。江ノ電鎌倉高校駅の前を渋滞でノロノロ走っていると、右折するベンツがいたのでパッシングすると、後ろに2台のベンツがいて、右折する3台 とも色違いのシルバーでした。やはりベンツは「シルバー・アロー」の伝説があるので、今でもシルバーが好まれるようです。最近,派手な形をしたベンツを多く見るようになりました。そのはずで、16年には7万台近くも売れていて、17年も輸入車第1位です。ベンツは、モデルチェンジのたびに新しい技術を売りにしていますが、98年4代目Sクラスのドアミラー内蔵式側面方向指示器には驚きました。今では軽自動車にもドアミラー内臓式が使われています。この赤いメルセデス・ベンツ・W114は、68年から76年まで造られました。73年にマイナーチェンジで三角窓が廃止され、この写真の車は三角窓がないので73年以降の車です。TVの「開運なんでも鑑定団」が好きで毎回見ていますが、ベンツが置いてある後ろの建物は骨董屋でした。三浦半島先端の諸磯海岸に撮影に行く途中にあるので、のぞいてみようと思ううちに閉店してしまいました。このベンツが、閉店前からか閉店後なのか、いつからあったのか気づきませんでした。まさか、骨董屋での売り物ではないでしょうね。
№1-42 ボルボ・V70 ロングオーバーハングのボディ
私の家の近所に最新のスマートな2台のボルボを所有している家があります。1台はセダンで1台はワゴンです。以前、ボルボは世界一安全な車として、医者が所有する割合が多いといわれていました。近所の家はご夫婦で医者であるとのことです。ボルボは固い車です。何しろ、70年代のコマーシャルで、レンガの壁を突き破り、頑丈さをアッピールしていました。SNSで調べても新車や中古車の販売のページしかなく、面白い情報は何も得られません、悪しからず。子どものころ、オサムシのようなボルボをよく見ました。58年発売のPV544で、流線型のはしりのような車でした。ボルボ120(アマゾン)という上品な車もよく見ました。駐留米軍人が好んで乗っていたようです。中学生となって「モーターマガジン」や「モーターファン」といった雑誌を夢中になって読んでいたころ、写真を切り抜いてピンナップとして机の前に何枚も張りました。中でもギア社がデザインしたボルボP1800 2+2クーペの真っ赤な車の流麗なデザインが大好きでした。コマーシャルで壁を突き破った車はボルボ300で、長方形の武骨な車で71年から91年までの長い間作られました。それが年々角が取れて流線形になって行きます。それはフォードとの資本提携となり、今は中国資本が入っている結果からの影響であるといいます。写真の車は丸くなり始めたボルボV70で、99年から2007年まで造られました。2006年のモデルチェンジですべてアルミホイールになるので、この車はそれ以前になります。富士市の街中を走っているとき、営業をやめた二階建ての小規模なビジネス風のホテルの前の駐車場にありました。最新型はすっかり角が取れスマートになってしまいましたが、それでもボルボとすぐにわかるように、フロントグリルの形状は固く守られています。
№1-43 ニッサン・ステージア
5ドア車を、最近はSUVといったりミニバンといったりしますが、以前はハッチバックかワゴンかバンでした。しかし、車検の分類では、すべてステーションワゴンになるそうです。ステーションワゴンは、列車での旅行者を駅から目的地まで運ぶ車を言います。90年代ステーションワゴンがブームになりました。それまでスバル・レガシーやボルボ300などのワゴンが大人気となり販売を伸ばしていることから、96年日産からステーションワゴンとしてステージアが発売されました。ステージアの基本はローレル/スカイラインで、トランクスペースをそのまま上に持ち上げたスタイルになりました。当時はロングホイールベース・ショートオーバーハングで高速安定性をはかるスタイルでしたが、ステージアのロングオーバーハングの広々とした室内とデザインが新鮮で人気となりました。デザインだけでなく、ローレル/スカイラインをベースとした性能も優れていて,280馬力2,5リッター直6DOHCターボを搭載していたので、走り屋にはたまらない魅力でした。それを見たトヨタや三菱からも大型のステーションワゴンが発売され、ボルボやBMWなどの輸入車とともにステーションワゴンのブームになりました。その頃はまだバブル景気の余韻が残っていたからでしょう、2000年になりステージアがモデルチェンジしましたが、ほかの車とともにブームは終わりました。写真の車は、岩本山公園近くの、かってはお茶の工場であったような廃墟のガレージに放置されていました。お茶のような日本人に必要な嗜好品を造る工場であっても、廃業に追い込まれることがあるものなのですね。きっと製茶にもブームがあり、ブームは終わるためにあるものなのでしょう。
№1-44 トヨタ・クラウン 2004年アウディ・A4が発売されたとき、その新しいデザインに驚かされました。それを「シングルフレームグリル」といい、バンパーが無くなりグリルが逆台形の縦長になりました。この年、ほかのメーカーは販売が低迷しても、アウディは販売を伸ばしました。このデザインは他のメーカーカーに影響をあたえたでしょうが、まねるメーカーはありませんでした。ところが2014年14代目のクラウンはシングルフレームグリルに似た姿で登場したのには驚きました。トヨタはこのデザインを何と呼んでいるのでしょう。クラウンはトヨタの高級車として55年に発売しました。60年に日産からセドリックが発売されると日本の高級車の双璧として販売台数を競ってきました。しかし常にクラウンが勝っていましたが、唯一負けたのは71年4代目で「スピンドル・シェイブ」と呼ばれる2段になったラジエターグリルでクジラのように丸みを持ったデザインでした。眺めるだけでしかない私には、斬新でようやく日本車にも美しいデザインの車が誕生したと喜びました。ところが「クラウン史上唯一にして最大の失敗作」になってしまいました。次の74年5代目は直線基調の平凡なデザインになりました。写真のクラウンは、5代目をマイナーチェンジした76年発売の「スーパーサルーン」で横線基調のグリルから、縦基調に変わっています。人気TVドラマ『太陽にほえろ』では、ボスこと石原裕次郎が乗っていた車です。78年にはマイナーチェンジしてウインカーが変わっています。デザインは販売に即影響します。クラウンは、アウディのように決まったデザインはなく、その時の時流に流されてデザインを変え生き残ってきたのかもしれません。かってのライバルのセドリックは、もはや姿を消してしまいました。甘利山に上る入口にある集落の沿道の家に放置されていました。ニューモデルとして今発売されてもおかしくないようなデザインであるように思うのは私だけでしょうか。
№1-45 スズキ・ワゴンR トヨタは世界一規模の自動車会社であり、日本一の会社でもあります。何人もの友人が乗るトヨタ車は、どれも素晴らしく、20年20万キロ以上乗って故障1つもありません。その昔、クラウンやセドリックが登場した後、66年に日産からサニーが発売されました。スリムでコンパクトな素晴らしい1000㏄の車でした。そのすぐ後カローラが1100㏄で少し大きめな車を発売して、サニーを販売で追い抜き、長い間販売台数日本一を維持していました。2010年日産からジュークというコンパクトSUVが発売され、14年にホンダからヴェゼルというコンパクトSUVが発売され販売台数日本一になりました。16年にトヨタからC-HRというコンパクトSUVが発売され、昨年販売台数日本一になりました。そして今、連日テレビのコマーシャルが流れているのが「トール」で、濱田岳がグーンと伸びる奇妙な内容で、あたかも天井が高いトールワゴンがダイハツの専売であるかのように宣伝しています。小型のトールワゴンは、2000年にスズキから「ソリオ」として販売されていて、最近売れ行きが好調なところに目を付けたのでしょう。軽のトールワゴンを最初に販売したのはスズキでした。前にも触れましたが、三菱トッポもトールワゴンといえるでしょうが、ミニカの天井を高くしたものでした。93年発売のワゴンRは、背を高くすることで室内の狭さを克服した革命的なモデルとなりました。すぐにライバルのダイハツ工業はムーヴを発売し、今日まで販売台数を競ってきました。今やスズキもダイハツもトヨタの傘下に飲み込まれました。企業はこうした競争を繰り返し大きくなっていくものなのですね。写真の車は、韮崎へモモの花の写真を撮りに行ったとき、まだ咲いていない桃畑の中に溶け込むようにありました。97年に発売された後期型でインタークーラーターボエンジンを積んでいます。この頃のスズキは、ターボ並に鼻息が荒かったようです。
№1-46 ダイハツ・ムーブダイハツ・ムーブはスズキ・ワゴンRに対抗して2年後の95年に発売されたトールワゴンです。それまで造っていたミラとの共用が多いため、シートの座席高はそのままでした。それがかえって女性には乗りやすかったようです。デザインも、シンプルな男好みのワゴンRに比べて、装飾を多くして女性好みにしているようでした。私の同僚が初代のムーブに乗っていたので、私も乗る機会が多くありました。その方は、2台目、3台目とムーブを乗り換えました。先日最新型のムーブで、大人4人が乗り、1日400キロを私の運転でドライブしました。ターボは付いていませんが、高速道路でターボ付きの私の車と変わることなく110キロまでスムーズに加速します。新しい技術が色々付いていて、中でもセンターラインを踏むと警告音が鳴ります。ドライブ中ビービー鳴らして走るのには閉口しました。燃料は半分を少し下回った程度の消費で、道具として使うには、軽自動車でなにも不足はありません。今や販売される半数が軽自動車であることがわかります。写真の車は98年発売の2代目で、99年発売のエアロダウンというターボ付きの上級車です。ジェルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザインが担当していると言いますが、どこがと思います。
№1-47 ホンダ・ライフ
ホンダ・ライフは、人生と同じくらい浮き沈みがあった車でした。前に取り上げたホンダ・N360が欠陥車として提訴されると生産を中止し、代わりに71年発売したのがホンダ・ライフでした。このライフも74年に生産を終了し、一時ホンダは軽乗用車から撤退しますが、85年ホンダ・トゥディを発売します。この車の車高は1320ミリ。同時期のダイハツ・ミラが1370ミリですから、いかに低いか。それでも小柄の女性には好評で、同僚の女性は喜んで乗っていました。私より体格の大きな男の同僚も乗っていて、カッコいいと粋がっていました。私が乗ると、天井と頭の間に拳が1つやっと入るくらいです。確かに車高が低いと走行性能が上がるので、レースでは活躍したようです。この頃のホンダは、車高が低いことが良い車の証の様に、シビックも、アコードもとても車高が低い車でした。評論家の三本和彦氏が、TVの新車情報で、いつも天井に拳を入れて低い車高を怒っていました。そんな時代に発売されたのが車高1640ミリのスズキ・ワゴンRでした。続いて1620ミリのダイハツ・ムーブが出て、97年ホンダ・ライフが再登場します。車高が低いかっこよさを反省し、車高を高くして居住性を重視することの大切さに気づいて、1575ミリのトールワゴンでした。しかし、ワゴンRやムーブより車高が低いためか販売は全く振るいませんでした。それでもライフは5代目まで造られ、5代目の車高は1630ミリでした。そのあと発売されたのがホンダ・Nボックスで爆発的な人気となり、2014年発売以来販売台数日本一を記録しました。車高は軽リミットギリギリの1780ミリです。そのブームに押されて、ライフは消えてしまいました。写真の車は、復活して97年発売の2代目です。この車は、軽の規格が変更されたことから、1年半で3代目にモデルチェンジになりますが、大きくなっただけでスタイルはほとんど変わりません。この場所は、修善寺温泉の近くで、都会から移り住んで永住するような自然豊かな宅地です。この車の持ち主は、ライフとともに終の棲家でどんな人生を過ごしたのでしょう。
№1-48 スバル・プレオRSリミテッド
スバルは高い技術力を持つ会社です。最新の技術は衝突防止システム「アイサイト」です。今やこの衝突防止システムは、新車のすべてに採用されるようになりました。伝統的に水平対向エンジンと4WDは知られていますが、無段階変速機「ECVT」を最初に開発して採用したのもスバルでした。今や小型車のほとんどの車に採用されています。スムーズな変速と燃費の軽減に役立っています。ご存じのとおり、軽自動車の元祖はスバル360です。その開発秘話は、今でも語り草になっています。各社がトールワゴンに移行する中、スバル・プレオは最後発の98年に1575ミリの車高で発売されました。そしてスバルはこのモデルで軽自動車の生産から撤退することになります。90年代のスバルは、モータースポーツに浮かれていました。89年にスバルワールドラリーチームを結成し、90年より世界ラリー選手権に本格参戦して、素晴らしい活躍をします。4WDを生かしたラリーが主でしたが、F1にも触手を動かし、12気筒水平対向エンジンの製作をしています。写真のプレオは。2001年発売のRSリミテッドでエアロパーツを装着した特別仕様のスポーツモデルで、リアスポイラーも付いています。4気筒でスパーチャージャー付きのエンジンです。さらにレース様に改造した痕もあるので、富士スピードウエイを走ったに違いありません。この年、スバルのオーナメントは六連星(むつらぼし)になり、この車にも付いていました。国道1号線沼津辺りを走っているとき、土手下の家の庭に見つけました。隣にはレース仕様のミラージュの廃車がありました。
№1-49 三菱・ミラージュクーペ ようやく沈静しかかっていますが、日大のアメフト事件は、アメフトのルールも知らない人に興味を持たせる事件でもありました。数年後、この隆盛のエポックメイキングとアメフト史に日大事件が記録されるに違いありません。その昔、アメリカンフットボールなど一般に名前も知られていなかったころ、三菱自動車がスポンサーとなり「ミラージュボール」が日本で開催されました。NCAAカレッジフットボールで、77年~85年まで開催されアメリカで一番の人気スポーツであると知りました。それは、78年発売された三菱・ミラージュの宣伝のためでした。発売されたミラージュは、名前のようにそれまでの車とちがった斬新な車でした。直線を基調としたシンプルなデザインは、アメリカのコンパクトカーのようで、特に緑黄色のボディは「青いリンゴ」をイメージしていて魅惑的でした。しかし、継続することは難しいもので、2代目、3代目となるにしたがい個性は失われ、普通の車になり、5代目の2002年で生産は終了します。写真の車は、4代目ミラージュクーペで91年~95年まで造られ、93年発売スーパーアステアのMVVエンジン1600ccDOHC140馬力の高性能スポーツタイプです。さらにエアロスカートとリアスポイラーを付けたレース仕様です。それは、85年~98年まで「ミラージュカップ」というワンメイクレースが行われたから造られた車でした。これもおそらく富士スピードウエイを走ったに違いありません。広い庭の片隅の置かれた2台のレーシングカーを所有する方は、レースに明け暮れた青春のモニメントとして、今でも置いてあるにちがいありません。ミラージュの車名は人々の記憶から消えてしまいましたが、今あるアメフト人気は、ミラージュボールがエポックメイキングであったのかもしれません。
№1-50 AE86型 帰宅したら86を書こうと思いながら、深夜乙女峠のトンネルを抜け下り始めると、後ろから煽るようについてくる車がありました。私が振り切ると、また低音の排気サウンドで迫ってきます。なかなかのテクニックとハイポテンシャルな車です。市街地に入り2車線になって並ぶと、なんと86のシャコタンではありませんか。かなうわけがありません。かって、私がホンダ・プレリュードに乗っているとき、同僚が86のスプリンタートレノに乗っていました。白に黒いラインのダサい車なのに、同僚が自慢するので何度か乗りましが、良さは感じませんでした。プレリュードなど名前も忘れられた今、86は、名車として多くの走り屋に愛されています。廃車の写真も一番多く4台も撮っています。AE86型は、83年発売のカローラレビン/スプリンタートレノを総称する形式名です。名車となったのは、小型車がすべてFF(フロントエンジンフロントドライブ)形式になって、最後に残ったFR(フロントエンジンリヤードライブ)が86だったからです。そのためのハンドリングの良さだけでなく、自然吸気1,6L DOHC16バルブの高性能エンジン、サスペンションの単純構造から容易な改造(シャコタン)などからレースで活躍し、全日本ツーリングカーレースで優勝もしています。なんといっても86を名車として有名にしたのは、土屋圭市のドリフト走行で、86があってこそのドリフト走行でした。2001年より「D1グランプリ」として、世界中からドリフト操者が日本に集まり、競技をしています。その中心は今でも86です。神明峠などを通ると、長いタイヤ痕が何本もあるのはドリフト走行をした痕です。一般道でのドリフトは困ったものです。以前、水が塚駐車場がドリフト場になっていたことがありますが、今は防止柵が設置されてできなくなりました。3枚の写真の上は、カローラレビン、中はスプリンタートレノの2ドア、下はハッチバックの3ドアです。ハッチバックがあった家には2ドアクーペもありました。87年5代目(AE91型)になりカローラはすべてFF形式になりました。
№1-51 ニッサン・180SX
AE86と180SXはドリフトカーとして双璧をなしています。86がむしろ生産中止になってから人気が出たように、ニッサン・180SXも生産終了した今でも人気が高い車です。それは、今は希少になったFRの軽量スポーツカーであるからです。180SX(ワンエイティエスエックス)は89年発売され、88年発売S13型シルビアとの姉妹車で、北米向けの240SXをベースに日本仕様に仕立て直したモデルです。シルビアがライトの位置が低いということで、北米向けにリトラクタブルライトにしたのが240SXで、それを1,8L ターボ付きエンジンに変更したのが180SXです。女性的に洗礼されて美しく仕上がったスタイルを今でも愛着を持って乗り続けている方が多いようで、見ることが多くあります。写真の車は96年発売の後期型で、2,0Lターボエンジンで、さらにチューニングされたエアロバージョンです。深夜の街を爆音を轟かせ走り抜ける暴走族やルーレット族等に愛された車でもありました。黒い車体が怪しく官能的で、男たちの気持ちを駆り立てたのかもしれません。保険に入ることを拒否されたと聞いています。今は下駄ばき式ガレージ(上が住居になっている)に廃車となって静かに眠っていますが、夢は、女王様きどりで爆走した過の日の華麗な日々であるのかもしれません。180SXは98年まで販売され、シルビアに統合された夢のような1代だけの車でした.
№1-52 ニッサン・シルビア 6代目
80年代は、スペシャルティカーの時代でした。トヨタ・セリカ、ホンダ・プレリュード、ニッサン・シルビアなど、2ドアで車高が低く、居住性よりスタイルを重視した車が多く発売され多く売れました。若かった私もプレリュードに乗り、サンルーフを開け走ることを楽しみました。しかし90年代になると、スバル・レガシーなどのワゴン車やワンボックスなどのRV車に移っていき、スペシャルティカーは忘れ去られていきます。シルビアが最も売れたのは88年発売のS13型でした。93年にモデルチェンジされ6代目S14型が発売されます。バブルの名残りからだろうかボディサイズが拡大され、3ナンバー車になります。それが災いしたか人気を失っていきます。人気挽回のため96年にマイナーチェンジされ、全体をシャープに変更されます。前期型を「たれ目」後期型を「吊り目」とマニアは呼んでいます。98年にモデルチェンジされ、7代目はサイズが元の5ナンバーにスリム化されます。しかし車の人気の移ろいは激しく、シルビアが75年の復活から27年目の2002年に歴史の幕を閉じます。写真のシルビアは、96年発売の後期型「吊り目」です。国道52号線の道路沿いに、前を通る車を吊り目でにらむように止まっていました。
№1-53 トヨタ・チェイサー
TV番組に「YOUは何しに日本へ」があります。成田空港に来た外人が、ドリフトの大会に出場するために来たというのです。そして大会で、優勝こそしませんでしたが、素晴らしい走りを見せました。なんとそんな外人が多く訪れるレース場が福島県にあり「エビスサーキット」といいます。ユーチューブでそこでの走りを見ることができます。チェイサーもドリフトカーとして人気の高い車です。チェイサーは、77年マークⅡの姉妹車として発売されました。当時はケンメリと続くジャパンスカイラインが絶大な人気を誇っていて、その対抗馬として若いユーザーを狙って発売されたスポーツタイプの車です。チェイサーが最も売れたのは、88年4代目のバブル絶頂期でした。私の同僚にも誇らしげに乗っている方がいました。乗せてもらうと、あれもあり、これもありの至れり尽くせりの広く豪華な室内でした。今思うと、1800㏄の廉価版もあったようで、そんな車で見栄をはっていたのかもしれません。写真の車トヨタ・チェイサーは96年発売の6代目で、98年マイナーチェンジされた後期型です。スポーツグレードの「ツアラーⅤ」で直6 2,5Lシングルターボ280ps5速マニアル仕様です。今でもチューニングカーのベースとして人気の高い車です。しかしチェイサーはこの6代目で2001年に販売が終了し、マークⅡも2004年で終了します。大石寺の近くで、今にも走り出そうなきれいな状態で止まっていました。また出番があるのかもしれません。
№1-54 日産・スカイラインGT-X2000
「富士山が呼んでいる」と言うプロの富士山写真家がいます。にわかに信じがたいですが、もしかしたら私は、廃車に呼ばれているのかもしれません。前にも2度、道に迷って走っていると、貴重な廃車に出会いました。今回も田貫湖に向かって走っているとき、道に迷って貴重な2台を見つけてしまいました。その1台、まさか廃車の3代目ニッサン・スカイラインC10型に会えるとは思いませんでした。通称ハコスカで、68年に1,5L エンジンで発売されました。その後に、フロントノーズを延長したGTが、6気筒2L OHCで発売されます。翌年2L DOHCのGT-Rが発売されます。普通のセダンの形をしていながら、200馬力を超える性能から三本和彦が「羊の皮を被った狼」と評しました。それを当時の宣伝文句に使われました。GT-Rは、モータースポーツの世界で数々の勝利を挙げたことはいうまでもなく、その栄光は今日まで続いています。残念ながら写真の車は、GT-X2000で72年に発売された車です。エンブレムはGTが青色、GT-Rは赤、GT-Xは金色、色は褪めていましたがテールランプの下に金色のエンブレムがありました。スカイラインの伝説は、その性能だけではなく、レースで活躍したレーサー達のロマンが数多くあることと、なによりも櫻井眞一郎の存在にあるのでしょう。工業製品で、まして最先端の自動車で、これほど人間を前面に出した製品は少ないのではないでしょうか。櫻井眞一郎は、7代目までのスカイラインの開発責任を担当します。長野県岡谷市には、スカイラインミュウジアムがあり、その初代館長は櫻井眞一郎でした。3代目スカイラインは31万台造られます。初代のGT-Rは1945台というわずかで、廃車として放置されることは考えられないでしょう。ハコスカは72年にはケンメリのスカイラインにモデルチェンジされます。しかし、歴代のスカイラインGTの中で、今一番多く見るのはハコスカではないでしょうか。それだけ人気のある車なのでしょう。1年というわずかな期間しか造られなかったGT-Xも貴重な1台であるはずです。写真の車は、迷った道を抜けて国道139号線の旧道414号線に出て、走り出した所にある食堂の広い駐車場の隅に止まっていました。外側はきれいに見えますが、中は傷んでいて、もはや再生されて走ることはないでしょう。廃車に会えることはうれしいことですが、やはり富士へ向かって迷わずに走り続けたいものです。
№1-55 いすゞ・ベレット1800GT箱根大観山は夕焼けに染まる富士山を撮影する絶好のポイントです。特に夏至の頃は太陽が富士山の近くまで来るので、劇焼けになることを期待して大観山へ行きます。同時に、大観山は走ることの好きなカーマニアにとっても、絶好のワインディングロードでもあります。箱根新道からターンパイク、さらに伊豆スカイラインへの中継地であるからです。大観山山頂駐車場手前の撮影地にいると、あらゆるる名車が、爆音を響かせて通り過ぎていきます。フェラーリ、マセラティ、ポルシェ、ベンツなどの数千万するスーパーカーなどがグループで列をなし、ひっきりなしに通り過ぎます。あるとき、懸命に小排気音を響かせて上ってくる車がありました。ベレGです。通り過ぎたと思うとじきに戻ってきて、私の前に止まったのです。いすゞ・ベレットは63年に発売され、73年まで生産されました。ベレットの前に発売された2000㏄中型車のベレルが保守的で芳しくなかったのに対して、ベレットは1500ccの小型車で、先端技術を多く取れ入れたことで好評な販売となりました。翌64年、1600GT(通称ベレG)が発売されます。SUツインキャブ1600ccOHV流線型のクーペは斬新的でした。日本初のディスクブレーキ、日本初のGT(グランドツーリッスモ)を名乗りました。「GT」は、本来は欧州を大旅行するのに使える高速での長距離走行に適した車を意味しましたが、レースに使える高性能の車を意味するようになり、「R」はレース仕様を意味します。69年にはGTRが発売され、DOHCの高出力で最高速190kmを誇りました。現在は最高速など表明しませんが、当時はカタログにも表記し、最高速を争いました。70年には、1800GTが発売され最高速180kmというGTRに迫る性能でした。写真の車は1800GTです。ベレGが高性能でレースでも活躍できたのは、小型軽量にありました。何しろ車幅が1495mm、車高が1325mm、のぞいた室内は今の軽自動車よりとても狭いです。乗っていたのは50代と思しき方でした。故障も全くなく、もう長く大切に乗っているそうです。ベレGには、このように愛好家が多く、オーナーズクラブもあるそうです。車から降りたオーナーは、富士山の写真を撮ると小排気音を残して、また上って行きました。自動車生産の歴史が浅い日本では、ハコスカやベレGはクラシックカー(ネオクラシックカーとも呼んでいます)の部類に入るでしょう。これからも大切に走り続けて、真のクラシックカーになってほしいものです。同時に、今はトラック専門メーカーになったいすゞ自動車が、かってはこんな高性能な乗用車を作っていたことを忘れないようにしたいものです。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
気まぐれで始めた「廃車のある風景」が、まさかこれほど早くこれほど長くなるとは思いませんでした。長くなりすぎ、最新までのスクロールが大変であるという声から、一旦ここで終了し、新たに「第2集 廃車のある風景」として新しくカテゴリを作りました。
第2集もよろしくお願いいたします。