やすらぎの富士

富士山写真撮影の記録
カテゴリ:続・廃車のある風景( 1 )
続・廃車のある風景


続・廃車のある風景

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112.pngボルボPV544

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子供のころ、横浜と横須賀に挟まれた所に住んでいたので、私の家の周りには米軍基地が多くあり、近くには軍人や軍属の人(オンリー)が住んでいました。特に横浜本牧には、金網のフェンスの向こうに広々としたアメリカの様な住宅が広がっていました。今ほど警戒が厳しくなっかったことと、子供だったからでしょう、中に潜り込んでも咎められることは少なく、カメラを隠し持ち何度か車の写真を撮りに行きました。どこにでもあるアメリカ車よりヨーロッパのスポーツカー、特にジャガーがお気に入りでした。そんな中で目にしたのがボルボPV444で、その「オサムシ」のような特異な姿を今でも覚えています。ボルボの生産国スエーデンは、中立国であったため第二次世界大戦の戦禍を免れました。そのため戦後すぐの46年からPV444の生産を始めます。前後フェンダーが独立したプレーンバックスタイルの流線型で、まるで戦前のアメリカ車のようなクラシカルなスタイルが反って好まれたのかもしれません。モノコックボデイで1t未満の軽量から、性能も良かったようで、その後何台も国道を走っているのに出会いました。真偽のほどはわかりませんが当時の話しとして、米軍人が日本に来るとき車を1台持って来ることができ、帰国する時それを売るのだそうです。そうして日本に多くのアメリカ車が入り、それを当時の金持ちや芸能人などが買いました。写真の車はPV544で、58年に発売され65年の生産終了まで24万台余り造られました。「PV」は乗用車の意味で、5は5人乗り、4は4気筒、4は40馬力の意味で、PV444の4人乗りから5人乗りになり、フロントガラスが曲面の1枚ガラスになりました。この1台も米軍関係から放出された車かもしれません。今は国道414号線北山の沿道に置かれていますが、どんな運命をたどってここまで来たのでしょう。私は経験がありませんが、私の兄は米軍人の車が来ると、みんなで群がってお菓子を要求したそうです。そんな車の1台であったのかもしれません。


118.pngビュイック・リミテッド ?
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今年の夏は異常高温の日が続き、ついに最高気温が記録された日、石和の街を桃を買うために走っていると、車の外気温度計は40度を掲示していました。桃畑を通り抜けて市街地に出ると、この車を見つけました。大型中古オートバイを販売する店の駐車場に置いてあり、いかにも古いデザインの車です。大型ワンボックスカーほどのボリュームがある車体、ライトとフロントウインドーに庇があり、異様に高い鼻ずらのボンネット、バンパーには3本の"カツオブシ"、見覚えのない不思議なデザインの車です。前のボルボより古い車で、間違いなく戦前の車です。帰宅して調べると、古いだけに資料が少なく、同一の車種を見つけることはできませんでしたが、それらしい車を見つけました。ビュイック・センチュリーで、1936~42年の間製造さた車でした。165馬力を発揮する直列8気筒5,2L エンジンで95マイルの巡航速度を誇りました。鼻高の大きなエンジンルームの中には、巨大なエンジンが入っていたのです。しかし、この車には庇がありません。リミテッドという最高級車があるのでこちらかもしれませんが、写真がないので確かめることができません。ビュイックは1903年から生産を開始し、その後GMモータースに譲渡され、GMとして最初に造られた車となります。その後、最高級車キャデラックに次ぐ中級車として扱われて、センチュリーは6代目2005年まで造られました。この車は、もしかして戦後の進駐軍によって持ち込まれ、高級将校を乗せて荒廃した日本の8月の暑い夏を走ったのかもしれません。マッカーサーを乗せたとしても十分貫禄のある車です。今は廃車となり朽ちるがままにさらされていますが、甲府盆地の暑い夏に耐えて踏ん張っている姿は、日本を負かしたヤンキー魂を見る思いがしました。


111.pngフォード・F100 ?
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アメリカ人はピックアップトラックが好きなようです。それは開拓時代の幌馬車を連想させるからだとか、税金対策だとか言われていますが、アメリカ映画を見ると、特に若者はたいていピックアップトラックに乗っています。アメリカでは、開放荷台を有する車をすべてピックアップトラックと総称しているようですが、日本では荷台のある乗用車タイプをピックアップ(「廃車の」の初めにアメリカ製のスバル・ピックアップがあります)というのだと思います。私の知り合いでピックアップの荷台に居住ユニットを載せたカンピングカーで、岐阜から富士山の写真を撮りに来る方がいます。以前はダットサンにピックアップがありましたが、現在はトヨタ・ランドクルーザーと日産・サファリだけで、日本ではほとんど人気のない車種です。ところが、フォード・Fシリーズは、年間販売台数世界一で、2007年には76万台も販売されたというので驚きです。写真のF100は2代目で、53~56年まで生産されたこの型は根強いファンが多く、少し前を描いたアメリカ映画の農村では、必ずといって良いほどこの車が走っています。御殿場を走っているとき、この車を見つけましたが、何か違うのです。Fシリーズは、100から始まって900まで、数字が大きくなるにしたがって荷台が大きくなります。一番小さい100ですが、それでも小さいのです。写真を撮っていると、建物の中から人が出てきたので聞くと、F100に似せたボディをFRPで造り、ダットサントラックに乗せたのだそうです。全体が2分の1にスケールダウンしてあるので小さかったのです。スポーツカー的かっこいい車の偽物を作る人の話は聞きますが、ピックアップトラックを似せて造るという粋な方がいることを知り、本物に巡り合うよりうれしく思いました。テールランプとナンバープレート、これは本物 ?


114.pngビュイック・ルセーバー
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クラウンには以前ワゴン車がありました。しかし全然売れなかったそうです。ましてピックアップトラックがあったとしても、まったく売れなかったことでしょう。アメリカ人はこんなでかいピックアップをどのように使うのでしょう。この車には車名を明らかにするオーナメントが何もついていませんでした。細部に違いがありますが、80年代のトヨタ・クラウンのような高級車ビユイック・ルセーバーであろうと思います。確定出来ないのは、参考にした解説が英語で書かれているからです。葛城山の近くで見つけました。これを所有した日本人も、どんな目的でこの車を所有したのでしょうか。


125.pngビュイック・ランドマスター
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ビュイックつながりで、現在のビュイックです。といっても91年~99年まで発売されたビュイック・ランドマスターという車です。これも見つけた解説が英語版なので、車の詳細は分かりません。外観は放置されているにしてはきれいで、とても廃車には見えませんが、車内はゴミの山でとても走れる状態ではなく、間違いなく廃車です。逗子市の裏道路で見つけました。住宅地の月極駐車場の一角に放置されたでかいアメ車は、どのような事情で放置されているのかとても疑問です。逗子市池子に米軍用住宅があり、夕方横須賀米軍基地から帰宅する車が大渋滞を興します。それを見ながら反対から走ると、Yナンバーの車はすべて国産車で、アメ車は一台もありません。日本に住むには国産車がいいと思うアメリカ人の合理的な考えなのでしょう。それに反するように、アメ車に乗って楽しむ日本人がいます。143号線湘南海岸通りを走る70~80年代のアメ車に乗っている方をしばしば見ます。この車の持ち主もそんな一人なのかもしれません。


110.pngトライアンフ・ヘラルド
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湾岸戦争の後、イランから原油を供給してもらうために、1974年イラクとビザ相互免除協定が結ばれました。御坂峠に向かう途中で道を間違え,農道へ迷い込んでしまった時でした。広い空き地に数台のポンコツ車が置かれている隅に、この車がありました。反対の隅に4,5人の相当怪しい東南アジア系の色黒な男達が立ち話をしています。行きにくい雰囲気でしたが車の魅力にはかなわず、写真を撮っていると、案の定、男の一人が近寄ってきて「車イルカ」と話しかけてきました。まずいと思って逃げるように立ち去りました。後で考えるとイラン人ではないかと思います。イラン人は観光で日本に来て、あるいは不法滞在で、中古車のバイヤーとして集めた車をイランに送っていることがわかったからです。ここはそんな集積地であったのかもしれません。写真の車はトライアンフ・ヘラルドサルーンで、59年~71年まで生産されました。ミケロッティがデザインした美しい車です。60年にセドリックが発売されて、まだサニーもカローラも発売されていない時代で、夢のような存在の外車でした。乗っていたのは一部の金持ち、そして全盛期の日活映画スター達でした。前に取り上げたトライアンフのオープンスポーツカーは和田浩二などの男優でしたが、ヘラルドは女優が似合う車でした。笹森玲子や清水まゆみが似合う女優として思い出されます。助手席の窓から手を振りながら去って行ったあの時代のスターたちは、今どうしているのでしょう。車は、廃車となって放置されていますが、塗装の剥げもなく、きれいな状態です。ただし後ろはつぶれているので、このまま走れる状態ではありません。ここを終の棲家として朽ち果てしまうのでしょうか。それともこんな状態でイラクへ運ばれていくのでしょうか。


146.pngフオード・RS200
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時として廃車はシートを被されていることがあります。自宅から30分ほどのマンション1階駐車場にそれらしい車があるのを通るたびに気になっていました。強風の吹いた翌日、もしもと思い行くと、やはりシートは飛ばされていて、現れていた車はまったく見覚えがない車でした。フオードのエンブレムから車名を探すとフォード・RS200ということがわかりました。RS・200は世界ラリー選手権(WRC)に参戦するためにグループB規定に則って造られた4WDミッドシップのレース専用車でした。デザインはカロチェリア・ギアが担当したというだけあって洗練された、ラリー車としては珍しい空力ボデイです。エンジンはレース専用エンジンメーカー・スワロース製ターボ付き1800cc直4DOHCで市販車には250PS、300PS、350PSの3タイプがありました。85年から参戦しましたが、ポルトガル戦で客席に突っ込み死傷者を出す不幸がありました。87年には19勝を記録して、2008年まで出場したようです。日本には十数台市販車が輸入されたとのこと、この車はとても貴重な車であることがわかりました。四国自動車博物館に展示されているとのことです。その後ここを通ると、車はありませんでした。どこかに引き取られて次の人生(車生)を送ることになったのでしょうか。


124.pngVW・ニュービートル
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今年の異常気象の暑い夏、タレントの所ジョージが飲料水のコマーシャルに出ています。それは以前自分が畑仕事で熱中症になったからです。転んでもただは起きない、これが所流なのでしょう。しばらく前、毎週金曜日の夜11時から所ジョージの「世田谷ベース」を見ていました。倒れたのはそのころで、同じころの2011年ニュービートルからザ・ビートルに改名されて、発表、12年に新しいビートルが発売され、所ジョージがCMに出ていました。同時に、所プロデュースのザ・ビートルが製作されました。ボンネットがレンガ色(錆色かもしれません、所は錆色にこだわりがありましたから)に塗られていて、単調なスタイルにアクセントとなり、さすがにセンスのいい車だと思いました。所は自分用にトランクの蓋も同色に塗ったものを製作していました。特注でこれも販売したのは、所流なのでしょう。写真のニュービートルが発表されたのは94年で、日本で発売されたのは99年でした。T1ビートルが生産を終了し、ゴルフが発売されたのが74年でした。1代目ゴルフは爆発的にヒットし、世界中で売れました。しかしあまりにも合理的過ぎて、面白みが何もないことに不満を持つ人が多くいたのでしょう。94年にゴルフは2代目にモデルチェンジされますが、T1ビートルの人気は益々高まって、中古車市場を熱くしました。そんな欲求が爆発するようにして生まれたのがニュービートルでした。デザイン的には好評でしたが、性能的には、RR車のデザインに無理やりFF方式を押し込んだため悪評の様でした。それでもビートルを懐かしむファンから高評価で迎い入れられたようで、見ることが多くありました。それから20年近くになれば、かっての愛車も当然廃車となって放置される車も出てくることになります。写真のこの車も外見はきれいですが、中はかなり傷んでいて、走ることはできません。194号線北山の出口近くで見つけました。「世田谷ベース」は曜日が変わって、今はどうなったのか見ていません。野菜だけれなく、錆色に塗ったオートバイを造ったりして、所流があふれた面白い番組でした。


153.pngVW・ビートル
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不思議なこともあるもので、ニュービートルのコメントを書いてから撮影に出た帰り、この写真のT1ビートルに出会いました。しかもこれは廃車ではありません。ナンバープレートが付いていて、現役として動く車なのです。しかも左ハンドルです。長い間製造された車なので、この写真の車がいつ造られたのかを特定するのは難しいです。73年にフロントウインドーがカーブガラスになります。この車は平なのでそれ以前の車になります。61年にカルマン製のコンバーチブルが発売されますが、それとヘッドライトと方向指示器の形状が同じです。ということは60年代の車だという可能性があります。走るところを見たい思いがしました。ビートルは78年にドイツ本国で生産を終了し、2003年にはメキシコでも終了し、完全に生産が終わります。年に1,2度公道を元気に走るビートルに出会います。今だにビートルを愛し続ける人が各地にいるのですね。


115.pngルノー・カングー
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ルノーといえば、私のような年寄りにはルノー4CVを思い出します。53年から日野自動車が生産した日野ルノーです。当時タクシーとして多く使われていました。初乗りが60円と安いのですが、後ろのシートに3人乗ると、子どもの私でも狭くてギューギュー詰めになりました。何しろ今の軽自動車ほどしかスペースがなかったからです。次が、99年日産が経営不振に陥り、ルノーの傘下に入ったときです。それまでの輸入代理店がヤナセで細々と輸入販売していましたが、2000年にルノー・ジャポンとして独立します。後期型が2002年に発表され、2003年に日本でも発売されたのが、写真の車ルノー・カングーです。カングーは97年に前期型小型フルゴネット・荷室拡大型貨物車として発売されました。ワゴン車よりも荷室が大きく、貨物車としてよりもレジャー用のSUV車として、日本でも販売を伸ばしたようで、とても見る機会が多くなりました。リヤードアが非対象2枚の、日本車にはないタイプが受けたのでしょう。シトロエンを始めフランス車は日本車にはない個性的なデザインです。これからはもっと受け入れられて販売を伸ばすでしょう。写真の車はまだまだ乗れそうなのですが、1年ほど前からこの空き地に放置されています。2007年にフルモデルチェンジされ、カングー2が発売されています。


130.pngルノー・メガーヌ
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最近見かけることが多いトヨタ・C-HRは、ボディに起伏が多く派手なスタイルの車で、私などはとても乗る気が起きません。日本車にもこんなに個性的な車が発売され、しかも多く売れているというのです。日本車の多くは個性をあまり出さずに、万人に好まれるようにデザインする傾向が強いように思います。その点フランス車は個性の塊のような車が多いです。前のカングーもそうでしたが、同じルノー続きで写真の車ルノー・メガーヌのリアデザインは、とても個性的です。C-HRの個性は、やたら凹凸をつけて飾り立てたデザインですが、メガーヌやフランス車の個性は車全体が個性的です。メガーヌのデザインのキーワードは「退屈へのレジスタンス」であるといいます。こういう個性の車なら乗りたい気持ちが起きます。2002年に発表され、2003年から日本でも発売さ、2009年にモデルチェンジになります。この車も、きれいな状態で、まだまだ乗れそうですが、この場所に1年以上放置されています。個性が強い車は、気に入って新車を買う人がいても、一度廃車になると中古から乗ろうと思う人がいないのかもしれません。このまま朽ちてしまいには惜しい車です。


151.pngスマートK
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私の住む団地には5千戸ほどの世帯が住んでいます。その中に1台だけ(たぶん)トヨタ・iQを所有する家があります。その家はもう一台大型SUVを所有しています。トヨタ・iQは2008年発売の大人3人と子ども1人を想定したシティーコンミュータカーで、2016年で生産が終了しました。スズキ・ツインは2003年に発売された2人乗りの軽自動車でシティーコンミュータカーとして発売されましたが、売れ行きが悪くて2005年約1万台の生産で終了します。おそらく車で出かけるときの90%以上は一人です。だからチョイ乗りとしてのシティーコンミュータカーを所有するのは理想的です。しかし現実的には受け入れられなっかったようです。日本のメーカーを動かしたのはスイスの時計メーカー、スウォッチでした。90年代初めマイクロカーを生産することを発案し、ダイムラー・ベンツと提携して開発した車が2人乗り全長2,5メートルのスマートでした。97年フランスに生産工場を建設、98年シティークーペとしてスマートを発売,2001年日本で軽自動車としてスマートKを発売しました。2002年にマイナーチェンジをしますが、写真の車はこちらの後期型のようです。2004年車名をフォーツーに変更,2007年2代目発売,2013年累計販売150万台を突破しました。2014年には3代目が発売されて、2016年日本での新規登録は4508台で現在も販売が続いています。日本では成功しなっかったコンミュータカーが、ヨーロッパでは成功したのはどんな違いからなのでしょうか。写真の車は田子の浦漁港の近くで見つけました。清水の街を10年以上走り回ったに違いありません。フランス車らしい個性的な面構えで、まだまだ走れるという姿勢で前を通過する人や車を眺めているようでした。


104.pngススキ・ジムニー
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雨上がりの先日、Nさんのジムニーが高座山でスタックして動けなくなったそうです。高座山は忍野村を見下ろす位置にあり、富士山の絶景撮影ポイントの1つです。ところが未舗装で、荒れた急な登山道を上るため4WD車でしか行けません。私もここへ上りたいがために4WD車に乗り続け、先日も行きました。下のポイントまではどうにか行けましたが、さらに上にもポイントがあり、道はもっと荒れています。そこでNさんは動けなくなって、仲間に救助を頼み脱出できたそうです。それまで高級乗用車に乗っていたNさんは、2年ほど前ジムニーに乗り換えました。自宅のある山梨県から静岡県まで、連日縦横無尽に駆け回って、富士山の写真を撮っています。ジムニーはどんなダートな道でも安心して走ることができるので、富士山撮影には最適な車です。もちろんカメラマンだけではなく多くの方が乗っています。しかし、私のように車中泊をする者には、車内が狭いので不向きです。今年の7月、ジムニー4代目が角型スタイルで20年ぶりのモデルチェンジされ発売されました。初代が発売されたのが70年で、軍用トラックのジープそのものを小さくしたスタイルで、軽自動車初の本格的4輪駆動オフロード車でした。当時のキャッチコピーは「自然に挑戦する男の車」でした。今でもこの初代型のジムニーが幌を外して、もっとすごい急坂のダートをぐんぐん上り、泥だらけになって駆け回る姿を見ることがあります。81年フルモデルチェンジして2代目が発売されました。イメージを一新し、快適性や操縦性などの性能を向上させ、幌のトラック型からワゴン型の乗用車になりました。しかし角型のスタイルは生きていて、まだまだ野性的であったようです。写真の車は2代目の2期84~90年発売の車です。柚野の農家の庭先で、10年以上前から放置されています。98年にフルモデルチェンジされ3代目が発売されました。それまでの角型から丸みを帯びて乗用車的なスタイルになります。ホイルベースが2030mmから2250mm(長くなるとスタックを起こしやすくなります)となり乗り心地が向上し、選択が5速マニアルから4速オートマトランスミッション中心になります。それは、野性的な男の車から、都会的な女性にも受け入れられる優しい車になったのかも知れません。Nさんのスタックがそれを物語っているように思います。モデルチェンジした4代目は、角型スタイルに戻ったことで、どれだけ野生を取り戻しているのでしょうか。


161.pngスズキ・ジムニ
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2017年に倒産したホープ自動車は、67年、ホープスター・ON型4WDを発売、初の四輪駆動軽自動車でした。68年富士山5合目まで登ることでその性能が実証されます。当時スズキ自動車常務であった現社長の鈴木修が、社内の反対を押し切り1200万円でこの車の権利を買い取り、スズキ・ジムニーの原型が誕生しました。そのあとさまざまな改良を加えて、70年に軽自動車初の本格的四輪駆動オフロード車が発売されました。当時の四輪駆動車は、トヨタ・ランドクルーザー,日産・パトロール、三菱・ジープで,大型車のみでした。そのため、維持費の安い車として、好評価で市場に迎い入れられ販売を伸ばしました。まさかこんな古い1代目ジムニーを見つけるとは思いませんでした。前の2代目ジムニーを書いてから撮影に出て、昼間の暇な時間に忍野村を散歩しているときでした。歩かなければわからないような所にジムニーは放置されていました。白いバンパーは、発売当初の1期型で72年まで販売されました。忍野村というこの地が、いかにこの手の車を欲しがっていたかがわかります。1期型は幌のみで、そのあとパネルバン型も発売されますが、初代は幌が多いようです。運転席のシンプルなメーター、チェンジレバーが2本、サブギアが付いています。前席2名、後席は向かい合わせに2名乗ります。この車がどんな喜怒哀楽を乗せて富士の裾野の荒野を駆けまわったのでしょう。しかし、寄る年波には勝てずに、今は朽ち果てるのを待つばかりです。


136.png三菱・パジェロミニ
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20年ぶりにフルモデルチェンジされたスズキ・ジムニーが好評価で、1年半待ちの売れ行きを横目でにらんでいるのは三菱自動車ではないでしょうか。ジムニーの原型となったホープスター・ON型四輪駆動車の生産権利を初めに持ち込んだのは三菱自動車だったからです。しかし、それを断ったことでスズキ自動車へ行くことになり、ジムニーが誕生したのです。それまで三菱自動車は、ジープを生産していました。82年にパジェロを発売し、91年にフルモデルチェンジされた2代目が爆発的ブームとなり、その余勢で発売したのがパジェロミニで、ジムニーのライバルとなる四輪駆動軽自動車でした。その勢いで95年にはパジェロジュニアが販売され、パジェロ3兄弟が完成します。ジムニーは四輪がリジット方式でしたが、パジェロミニは四輪コイルスプリングで前輪が独立式で乗用車感覚を強めていました。また、ジムニーは3気筒ターボ付きエンジンで瞬発力がありましたが、パジェロミニは4気筒20バルブ高性能エンジンで滑らかな走行性能を得ていました。90年代はRV車のブームでもあり、年間2万台以上の販売をする年もありましたが、2000年代になると徐々に販売が落ち,2012年に生産を終了します。パジェロジュニアは2000年に終了します。ジムニーは、日本の未舗装林道を走るのに必要な車でした。パジェロミニは、都会のコンクリートジャングルをスムーズに走り抜けるRV車のブームに乗った趣味の車でした。そのちがいが現在の結果を生んだのでしょう。写真のパジェロミニは、発売当初のモデルで、忍野村を散歩しているときに見つけました。同じ時代にライバルとして走り回ったジムニーとはどんな会話があったのでしょうか。ここでニュースが。18年秋、パジェロミニがニューモデルになって再登場するというのです。スズキ・ハスラーのようなより乗用車に近いモデル、それでも3気筒DOHCターボでの登場であるといいます。ハスラーが売れ、ダイハツ・キャストも売れたのにあやかって、3匹目のドジョウを狙うのでしょうが、果たして失地回復となるでしょうか。


107.png三菱・パジェロ
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私が富士山の写真を撮り始めて間もない90年代の初め、当時はRVともいわれた四輪駆動オフロード車がブームになりました。80年後半ごろからパジェロの1代目に乗る人が増えだし、91年に2代目パジェロが発売されると爆発的に売れ,国内新車月間販売台数1位にもなるほどでした。そして94年にトヨタ・ラブフォー、95年ホンダ・CR-Vが発売されます。それまであった、日産・テラノ、トヨタ・ランドクルーザーを含めて、私の同僚でも通勤と買い物でしか使わないのに、何人もRVに乗っている方がいました。もちろん撮影に富士の裾野に行くと,みなさんRVに乗っていました。当時、富士山周辺の裾野には未舗装の林道が多くありました。特に大好きな撮影地である山伏は、山梨県側早川から入り雨畑を過ぎると林道は悪路の連続です。静岡県側も県民の森を過ぎると未舗装となり悪路になりました。雨畑から先は10年前から通行止めになり、崖崩れが酷いのでこれからも開通することはないでしょう。県民の森から先は全部舗装はされましたが、毎年がけ崩れでしばしば通行止めになり、登山口がある百畳峠から先は通行止めのままです。今は全線舗装されましたが、国師ケ岳大垂水峠まで、丸山林道池の茶屋まで、新道峠までが未舗装の林道でした。だから、4WD車は必需品でした。中でもパジェロはどんな悪路でも無敵で楽々と走り抜けていきました。なにしろ、あの世界一過酷なパリダカレースで97、98年連続で優勝しする実力の持ち主だったからです。パジェロは、99年3代目2006年4代目とモデルチェンジをするたびにエンジンやボデイが大きくなっていきました。そのためか、みなさんパジェロから離れていき、今は乗っている方を見ることはありません。SUVといわれる中型、小型のワゴンタイプ、あるいはワンボックスカー、特にハイエースに乗り換える方が多いようです。三菱でもデリカのワンボックスカーを前面に出して、パジェロ並に悪路を乗り切る高性能をセールスしています。私の知人で2人乗っていますが、共に新車段階で電気系統に不具合が出ましたが、その対応の悪さに怒っていました。ほかにも悪い評判ばかりが聞こえてきます。高性能な車を開発する技能は高いようですが、人との対応には未熟な会社のようです。写真の車は爆発的に売れた2代目で、忍野村にある事務所風の建物の前にある駐車場の隅にありました。頑丈な車だけにまだまだ乗れそうですが、エンジンが不調で、もう乗ることはないそうです。


120.png三菱・デリカスペースギア
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鳴沢村役場の建物に入ると、壁面に全倍の大きな奥庭の写真があります。富士山5合目手前にある奥庭は鳴沢村です。そこに百年以上の長い間、富士山中腹を吹き抜ける疾風に樹形が曲がってしまった枯れ木があり、その木の堂々とした風格のある写真です。撮影者のMさんは富士山撮影の大先輩で、何度かお会いして親しく教えを受けたりしたものです。そのMさんが乗っていたのが写真のデリカで、ご夫婦と愛犬と共に来られることが多くありました。三菱・デリカスペースギアは、パジェロの爆発的人気を受け、それまでのデリカスターワゴンの後継車として、94年スーパー・プレジャー・RVとして発売されました。パジェロの性能をそのままトールワゴンにした性能で、アウトドア派に絶大な人気を得ました。それまでなかったフロントエンジンのトールワゴンであるため、室内がフラットで広々として、ご夫婦と犬が寝るのに十分の広さがありました。しかも車高が2mを超えるので、後席をベットに改装して、高さも十分ありました。小型車に乗っていた富士山写真駆け出しの私は、倍以上もある大型ギアから降りてくるベテランのMさんに、ただただ畏敬の念を持ったものです。最後にMさんにお会いしてから、もう5年以上経っているかもしれません。今でもギアに乗って,元気に写真を撮っているのでしょうか。写真のギアは、96年発売の特別仕様車「シャモニー」です。忍野村にあるガソリンスタンドの隅に置かれていました。ギアは2007年に販売が終了し、その後デリカD5として継続しています。



114.png三菱・ジープ
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子どものころの遊び場所であった野島山から眺めると、眼下の広大な敷地が何万という車で埋め尽くされていました。そのほとんどがジープであったように記憶しています。それはおそらく50年から始まった朝鮮戦争で傷ついた車の再生整備のためのプール場であったのでしょう。敗戦の45年まで、そこは追浜海軍航空隊の基地で、整備科予備学生育成のための飛行場でした。その後返還され、日産自動車追浜工場となり、61年から現在まで主要工場として車の生産を続けています。現在野島山から眺めると、ジープが並んでいた所はテストコースになり、覆面をしたテスト車が24時間走り続けています。ジープは、アメリカ陸軍の車として41年実戦に投入された小型四輪駆動車で、アイゼンハワーは、第二次世界大戦を勝利に導いた兵器の一つとして挙げています。戦後、軍用・民生用を問わず「ジープ」 は小型四輪駆動車の代名詞となって世界的に普及する端緒となりました。ジープの名称は自然発生的なものでしたが,戦後製造メーカーのウィリス・オーバーランド社によって商標登録されます。53年、米国政府は、朝鮮戦争に必要なジープを中日本重工業(後の三菱重工業)と契約し、53年からジープをノックダウン形式での生産を開始します。後に完全国産化となり、三菱・ジープとなります。アメリカでは、大戦中に65万台ほど生産されましたが、三菱では、アメリカ軍用、自衛隊用、民生用などにどれだけ生産されたか明らかにされていません。98年に自衛隊との契約が終了し、生産も終了します。子どものとき見たジープの群れの中に、三菱が生産したジープも混ざっていたのでしょうか。写真の車には三菱のマークがあります。大月から都留市へ行く途中の田園の中に放置されていました。戦場ではなく、平和な日本を走り回っての終の棲家となったことを幸せに思っていることでしょう。なぜか、不思議なナンバープレートが付いています。
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ジープハードトップです。軍用車として造られたジープでしたが、ハードトップと色を変えると雰囲気が全く変わります。子どものころ、この車をよく見たものです。モータリゼイションが始まる60年代、日本の道路はチベット並といわれて、幹線道路でさえ未舗装のところがあるほどでした。まして、山間部の多い地方では、ジープは必需品であったのでしょう(今でも山梨の警察や役場にはパジェロなどの四輪駆動車が常備されているのを見ます)。馬に乗って登場する小林旭の日活映画(山間部で銃撃戦が必ずありました)にも登場したように記憶しています。写真の車は、国道20号線甲州街道笹子トンネルを大月に向かって下っている途中の草むらに放置されていました。かっては荒れ地を無視して駆け回って活躍したこともあったでしょう。今は藪に埋もれて静かに眠っているようでした。


118.pngニッサン・テラノレグラス
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私の友人で、テラノに乗っている方が2人います。1人はかっての同僚で、1代目が発売されて間もないころブルーバードから乗り換えました。初めて見たとき、その大きさに驚きました。通勤に使用する車としてはあまりにも場違いのように思えたからです。どうして選んだのかを聞くと、子どもとキャンプなどアウトドア体験をしたいからだといいます。そして、休日のたびに出かけていたようで、丹沢や道志方面の話を聞きました。どうもテラノを必要とするほどの未整備地へ行くほどでもないようで、やはり4,5年で買い替えました。ところがそのころからRV車のブームが起きたのです。もう1人は、2000年ごろから親しくなった写真仲間のOさんです。梨ケ原で戦車のキャタビラで削られた悪路をものともせず走り抜けのを見て、テラノの性能の高さを実感しました。しばらくお会いしていませんが、Oさんはまだ1代目のテラノに載っているはずです。1代目のテラノは、86年に発売されます。北米のデザインチームがデザインしたとあって、日本車とは多少違和感があるデザインです。性能は優れいて、87年第9回パリダカラリーに初参戦、88年には市販車クラスで第2位、その後もクラス優勝するなど活躍しました。しかし、同時期のライバルであるパジェロは総合優勝12回を誇りますが、テラノはパリダカでは総合優勝できませんでした。写真の車は、日産・テラノの2代目です。初めて車に気づいた時、ニッサン・ミストラルかと勘違いしたのは、ツートンの色使いと、リヤーバンパーが丸く削られた形からです。しかし調べると、96年発売テラノ2代目の上級派製車種テラノレグラスであることがわかりました。2代目テラノは、他社のRV車の例にもれず、ボデイもエンジンも一回り以上に大きくなり,個性がないモノコックボディになりました。98年には生産累計台数100万台を超えますが、ブームは終わり、2002年に生産を終了しました。Oさんは、お会いして食事の支度をするとき、20ℓ入る大きなポリタンくをリアドアに付いたスペアタイヤの上にドスンと載せます。それを水道替わりにして、炊事をしました。またお会いして、手料理を御馳走してほしいものです。写真の車は、富士吉田市浅間神社近くの道路沿いに数年前から放置されています。


127.pngトヨタ・ハリアー
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ハリアーの登場は、車の概念を変える驚きを持って登場したように思います。車の概念は時代と共に変化するものです。悪路を走るに適した車、オフロード四輪駆動車をどれも「ジープ」と言っていたのは50年以上も前の事でした。それが、80年代頃より三菱が主導で「RV(レクレーショナル・ビークル)」として売り出しましたが、あまり定着しなかったようです。それがアメリカ発で「SUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)」と呼びだし、ランドクルーザー・1代目テラノ・パジェロがこの概念に当てはまります。2000年代になると「CUV(クロスオバーSUV)」と呼ぶようになり、ホンダCRーV・トヨタRAV4・2代目テラノがこの概念に当てはまります。SUVは、悪路を走る頑丈なボデイにするためにトラックで使われる梯子型のフレームを持っています。クロスオーバーSUVは、フレームをなくしたモノコックボディのSUVです。いわば泥沼のジャングルを走る四輪駆動車と都会のコンクリートジャングルを軽快に走る四輪駆動車の違いです。97年トヨタ・ハリアーは、高級サルーンの乗り心地と快適性を売りに、高級クロスオーバーSUVとして発売され、アメリカ(レクサスRX300)でも日本でも大ヒットして売れまくりました。それまでのデザインより走行性を重視した鈍重なSUVだったものを、鮮麗されたデザインで高級SUVという概念が成立することを証明した画期的な車になったのです。このヒットを受けて、アメリカはもとより、ベンツ,ポルシェ,ローバーといったヨーロッパの高級自動車メーカーも相次いで高級クロスオーバーSUVを発売します。現在、ヨーロッパの500万円を超えるような高級クロスオーバーSUVを見る機会が多くあります。それなのに、2013年3代目となったハリアーは、ほとんど見ないのは寂しいものです。写真のハリアーは、忍野村の広い庭の隅に置かれていました。かっては悪路でパジェロやジムニーが適した忍野村も、田んぼのあぜ道まで舗装されて、ハリアーが快適に走り回れるようになったのでしょう。


114.pngシボレー・タホ
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これが本場のSUVです。SUVという名称自体がアメリカ製なので、これが本当のSUVなのかもしれません。日本のチンケな車がSUVを名乗ることに恥ずかしさを覚えることでしょう。帰宅するまでもう少しという七里ガ浜の海岸通りを走っていると、山小屋風のレストランと思える店の前にいつもシボレー・ハマーH2が駐車しています。新車時には一千万円超えの超高級、車体は5mを超える全長、2mを超える横幅と高さ、5,7と7,4ℓのエンジン、威嚇するような面構えとスタイル、SUVの中のSUVはがハマーです。ハマーは、ハンヴィーという軍用車を民生用にしたH1を、使いやすくSUVにしたのがH2です。そのH2のベースになったのがシボレー・タホで、写真の車なのです。タホは、92年に発売された初代シボレー・ブレィザーを、95年にタホと改名した車です。2000年から2代目になり現在4代目まで続いています。初代モデルは2ドアのみがごくわずかヤナセから輸入されて、4ドアは並行輸入だそうです。雄大なアメリカ大陸の荒れ地を走り回るのには適した車が、山中湖畔の広々とした空き地にポツンと放置されていました。すぐ前には、たくさんのモーターボートが置かれています。日本でも、モーターボートを牽引したり、たまに見るトレーラーハウスを牽引する車にはとても似合う車でしょう。アメリカナイズされた生活を好む人によって輸入されたのでしょう。


110.pngスバル・360
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私が初めて「ドライブ」をしたのは60年ほど前の、発売されて間もないスバル360でした。我が家の車ではなく親戚の車で、後ろに乗って小田原方面まで行ったのを覚えています。乗り込むとグッと沈み込む柔らかなサスペンション、内張りが無いので丸くえぐれているサイド、横にスライドするサイドウインドー、丸く小さなスピードメーターだけのダッシュボード、カーラジオが無いので私が持ち込んだポケットラジオでしたが鳴りません。これらは軽量化のための工夫だったのです。当時の値段は、40万円以上したはずです。これは現在の500万円以上です。「国民車構想」で造られた車でしたが、とても買えるものではありませんでした。まだまだいろいろなことを覚えているものです。私はこの経験に刺激され、待ちきれずに16歳からとれる軽免許(当時軽自動車・三輪車・自動2輪車が乗れる軽免許というのがありました)を17歳でとりました。スバル360は、日本の自動車史上最高の名車といっても過言ではないでしょう。そのことが『てんとう虫が走った日ースバル360開発物語』という本に表されていて、百瀬晋八とうい男によって開発された車でした(TVドラマ「プロジェクトX」2001年5月8日放送)。56年から70年まで39万2000台販売されました。基本構成は、フル・モノコック構造(卵のからがなぜ割れにくいのかというコマーシャルがありました)の385㎏という超軽量車体後部に、356CC 16馬力2気筒空冷エンジンを横置きし、後輪駆動方式、トーションバー・スプリングのサスペンション、10インチの特注タイヤ、GFPR(ガラス繊維強化プラスチック、後に屋根を外して幌にしたコンバーチブル型が発売されました)製の天井、後方ヒンジの前開きドア、まだまだ多くある異例ずくめの車でした。スバル360は名車ゆえに現在も多くの愛好者がいて、たまに一生懸命走っているのに出会うことがあります。写真の車はヘッドライトにカバーが付いた後期型です。サイドウインドーも上下スライド式です。国師ケ岳へ行くため塩山駅の近くの不動産屋のテラスに置かれていました。オーナーにお会いして聞くと、その方のお父さんが購入したものが物置に置かれていたのを再登録して(当時は車検がありません)、しばらく乗ったそうですが、息子さんが乗らないのでベランダに置いてあるそうです。雨ざらしで置いてあるため傷んできたので、処分を考えているとのことです。


142.pngスバル・R-2
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スバル360の成功で軽自動車によるマイカーブームがおきると、軽自動車の戦国時代が訪れます。最初に発売されたのは、マツダ・360Rクーペでした。2+2のクーペ(リアシートは子ども用)という割り切った仕様で、30万円という廉価でした。続いてマツダは62年に、マツダ・キャロルを発売します。リアウインドウを垂直にした「クリフカット」という斬新なスタイルと水冷4ストローク直列4気筒OHVのエンジンという、軽自動車ながら本格的な乗用車感覚を満足させるデラックス車でした。さらに三菱・ミニカとスズキ・フロンテが発売されます。66年にはダイハツ・ヘローが、67年には、ホンダ・N360が発売されると廉価と高性能で爆発的に販売を伸ばします。スバル360もそれなりに新型を出して対応しましたが、次々と出る新技術の車とデラックス化に負けてしまい、販売が低迷してしまいます。そこで起死回生を期して、69年に写真の車、スバル・R-2を販売します。室内空間を広くしたり、エンジンをリードバルブで強化して、発売当初は販売を伸ばしましたが、その後他車に押されて低迷してしまい、72年に販売を終了します。写真の車を見ても、スバル360の斬新さの欠けらもなく平凡なデザインで、これではとても競合する他車にはかないません。本家のVWビートルも2代目は全く無能でしたが、3代目で巻き返します。しかしスバルてんとう虫は3代目以降も盛り返すことはありませんでした。そして2010年、期しくもR1、R2の車名を最後に軽自動車から撤退します。(レストア業者駐車場)


152.pngスバル・サンバー
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すごい場所を見つけました。50年以上も前の廃車が何台も放置されています。ここは自動車の墓場ではではありません。レストアをする業者の駐車場だったらしいのです。前のスバル・R-2 もここに置かれていました(この後何台かはこの場所で撮った車です)。レストアとは、いったん廃車になったような古い車を、走れるように再生することです。入口に事務所のプレハブ小屋があり、「レストア承ります」と看板がありました。しかし事務所は閉まっていて、現在は営業している様子はありません。そのため、レストアしようと集められのだろう古い車が野ざらしになり、酷い状態になり、まるで廃車の墓場のようです。写真の車は、61年発売スバル・サンバーです。スバル360と同じ百瀬晋六の開発で、空冷エンジンを荷台後方に横置きしたキャブオーバー型のモデルで、トラックとしては重要な荷台が広く取れます。前にも書きましたが、私の知人の畳屋さんが、「畳を載せられるのはサンバーだけだ」と言って使っていました。しかもスバル360譲りの四輪独立懸架であるため、ガラス屋さん、豆腐屋さんにも好評でした。主力の360が年々販売不振になるのを補って余るほど好評で、スバルの屋台骨を支え続けました。


130.pngスバル・サンバー
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先行していたサンバーでしたが、65年ダイハツ・ハイゼット、66年三菱・ミニキャブ、69年スズキ・キャリーバンと相次いで競合車種が誕生し、軽ワゴン車も戦国時代になります。しかも、どれも同じスタイルとなり、近寄ってマークを見なければ車種が分かりません。しかし、スバル・サンバーは、エンジンが荷台後部にあり、前輪が前席シートの下にあるためホイルベースが短いので、かろうじて判別できます。そう、この写真の車は3代目スバル・サンバーです。初代の個性的なデザインは、2代目から他車と同じ無個性な車となり、3代目からエンジンが水冷になります。76年に軽自動車の規格が変わります。排気量が360ccから550cc、長さが3,0mから3,2m、幅が1,3mから1,4mへと変更され大きくなりました。写真のサンバーは、ハイルーフ仕様で、これが発売されたのが79年ですので、それ以降の車となります。3代目は82年まで生産されます。サンバーは6代目、2012年のスバルが軽自動車から撤退するまでで造られました。大月から都留市へ行く途中の、周りは広い田んぼが広がる道路わきに放置されていました。


129.pngダイハツ・ミゼット
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映画『稲村ジェーン』と『ALWAYS三丁目の夕日』で共通することはなんでしょうか? それはダイハツ・ミゼットが活躍することです。『稲村ジェーン』は65年の世界で、ビッグウェーブ <ジェーン>を求めて台風の中サーフボードを荷台に載せてミゼットが走り抜けます。『三丁目』は55~64年の世界で、ゴジラに襲われ破壊される街の中をミゼットが走り抜けます。ともにこの時代を象徴するのがダイハツ・ミゼットだったからでしょう。ミゼットDK/DS型は、57年に発売されます。バーハンドルでドアが無く屋根は幌でした。毎週日曜日の午後6時30分、大村崑が「ミゼット!ミゼット!」と連呼する声がTVから流れてきました。58年から60年まで6チャンネルで放送された『ダイハツコメディー やりくりアパート』でした。当時はビデオなどないので、コマーシャルも生放送で、ドラマの内容は覚えていませんが、コマーシャルの連呼だけを覚えています。「街のヘリコプター」として放送以上にミゼットが大人気になります。59年に発売されたのが写真のMP型で、丸ハンドルになり、ドアが付き、屋根もスチールになり、2人乗りになりました。やがて、同時期に発売していた軽三輪車が次々に四輪に移行し、60年にダイハツからもハイゼットが発売されます。ミゼットは最後まで残って71年に生産を終了します。それまでの国内向け総生産は317,152台で、輸出は19,382台です。そのうちの大部分がタイで、「トウクトウク」というタクシーになりました。前編の「廃車のある風景」に、本物のトウクトウクがあったのを覚えていてくれているでしょうか。もしかしたら、ミゼットの影響から現在も3輪車なのかもしれません。(レストア業者駐車場)


129.pngダイハツ・ハイゼットⅡ
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93年第30回東京モーターショーにミゼットⅡが出品されると、大好評で、すぐに発売の声が高まり、実際に96年に発売されました。ニュービートルが発表されたのが94年ですから、それより前に人気車種のイメージを残した車を復活させるという快挙でした。1人乗り、最大積載量150㎏、4速MT仕様、エンジンはハイゼット用の3気筒SOHCで、廉価型Bタイプ、標準型Dタイプ、ドレスアップされたRタイプがありました。後にバンタイプが発売されます。しかし評判の割にはあまり売れなかったようで、ほとんど見ることがなく、2001年に発売が終了します。厚木から津久井へ抜ける通称半原バイパスの道路わきで見つけました。まさかそんな貴重な車が放置されるのに出会えるとは思いませんでした。


124.pngマツダ・K360
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私の親戚に三浦市で農業をしている方がいて、学生時代に何度か手伝いに行きました。特にスイカが終わる8月下旬、スイカ畑のかたづけをしました。そこで活躍したのが写真のマツダ・K360でした。三輪車というのは悪路に強い車です。車体が軽いことと併せて、四輪だとスタックしてしまいそうな畑の中を、ノラリクラリと四駆車のように走ることができます。そして、畑の狭い道を直角近くに曲がることができます。しかし、溝に落ちると大変、すぐに横転してしまいます。畑の中だから横転しても大丈夫、軽いので一人でも元に戻せます。『稲村ジェーン』でも、主人公の加瀬大周がミゼットで横転する場面がありました。50年代になると、軽三輪自動車を作る会社が出始め、後半にはミゼットの成功が後押しとなり百花繚乱となります。調べると、ダイナスター、ライトポニー、ホープスター、クノマック、ムサシ、ヤシマ、スパーク、などの販売された車がありますが、記録に残らないような会社はまだあったのかもしれません。しかしどれも生産台数は少数で、部品も既存のパーツを流用したもので、発展には限界がありました。唯一ミゼットに対抗できたのが、59年に発売されたマツダ・K360でした。ミゼットは9インチタイヤでしたが、K360は12インチタイヤで丸みを帯びたデザインでしたので一回り大きく感じました。また、ミゼットの単気筒2サイクルエンジンに対し、K360はV2気筒4サイクルエンジンで、音も乗用車並みに静かで、サスペンションが柔らかく乗っていて楽しい車でした。60年代になると、操縦安定性などから、軽三輪車は軽四輪車に移行したため、にわかに誕生した3輪自動車会社は次々に淘汰されます。マツダもB360という四輪車に移行して、K360は69年に生産終了します。(レストア業者駐車場)


121.pngマツダ・B360
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50年代の軽三輪車の時代が終わり、60年代は軽4輪車の時代になります。59年スズキ・スズライトが発売され、好調に販売を伸ばすと、61年にダイハツ・ハイゼットバンが発売されます。マツダからも写真の車マツダ・B360 が発売されます。初代のエンジンはK360と共用でしたが、63年にマイナーチェンジされ、エンジンはマツダ・キャロルと同じ総アルミ合金製水冷直列4気筒4ストロークOHVという高性能なエンジンになりました。写真の車は63年の中期型です。65年に後期型が発売され、68年まで生産されました。(レストア業者駐車場)


122.pngホンダ・T360
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ホンダ技研が最初に発売した自動車は軽トラックでした。62年第9回全日本自動車ショーにスポーツカーS360と同時に展示されていたのが写真の車、T360でした。63年に発売されると何よりも驚いたことは、エンジン性能でした。同時期のマツダ・キャロルが総アルミ合金水冷直列4気筒OHC 18馬力6800回転であったものが、T360はスリーブ以外は総アルミ合金水冷直列4気筒DOHC 30馬力というものでした。その驚異的な馬力は、キャブレター1気筒に1個の4連キャブレター(普通はエンジンに1個のキャブレター)とDOHC(排気と吸気の二本のカムシャフトで高速回転に有利、DOHCは現在スポーツタイプの車に普通に使われていますが、T360が自動車で日本で最初に使われました)による8000回転という高速回転で発生されたものでした。それはS360 (実際には発売されません)のエンジンを流用したからです。当時、かん高い排気音を残して高速で走り去るT360を見かけた記憶があります。この車は、本田宗一郎が開発から製品にするまでかかわった唯一の車だそうです。しかしこれは普通に使われるトラックとしては使いにくく、後に1個のシングルキャブレターに変更されます。こんなスポーツカーもどきのT360も、67年に軽乗用車N360が発売されると、後継車のTN360という普通のトラックに生まれ変わりました。(レストア業者駐車場)


144.pngトヨタ・コロナ
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トヨタ自動車は日本一の、否、世界一の自動車会社です。ところが以前、トヨタと日産が激しい1位争いをしていた時期があったのです。現在トヨタの最多量販車はプリウス、日産はノートで、毎年両社による販売合戦が繰り広げられています。この競争の始まりは、トヨタのコロナとニッサンのブルーバードからでした。今はもうその名前の車はありませんが、かってはあまりにも競争の激しさから、BC戦争と呼ばれました。最初に発売されたのは57年トヨタ・コロナでした。しかし開発期間が短かったため、販売された通称ダルマコロナは不評であまり売れませんでした。そして発売されたのは59年ダットサン・ブルーバードでした。1,0ℓと1,2ℓのエンジン、堅実なデザインで新鮮味のない車でしたが、前輪がトーショーンバーの独立懸架でフルシンクロメメッシュのトランスミッションなど性能的には満足させるものがあり、売れ行きは好調でした。トヨタは60年に打倒ブルーバードを目標に満を持して発売したのが写真の車、二代目トヨタ・コロナでした。その秀麗なデザインは当時の日本の水準を大きく超える車で、女性に大好評で迎えられました。性能も横置きリーフとコイルスプリングを組み合わせたサスペンションの新技術は操縦安定性と快適な乗り心地を実現しました。しかしまだマイカーが進んでいなかった当時はタクシーの割合が多くあり、タクシーでの耐久性が足りない、またピラーが細くスマートなデザインはボデイ強度が足りないなどの悪評が立ちました。そのため販売が伸びずに、ブルーバードの優位は変わらず、トヨタは生産台数が二位のままでした。トヨタも挽回すべき必死で対策を講じ、1,5ℓにパワーアップさせたり、女性のためにオートマチックトランスミッションを取り入れたり、第一回日本グランプリレースでクラス優勝したのを宣伝したりしましたが、3代目が発売される65年まで一位になることはありませんでした。そんな60年も前の記念的名車が、なぜこんな所に放置されているのか、しかも2台、以前はシートを被され大切に保護されていたようですが、今は朽ちるに任されています。


132.pngダットサントラック
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相模川に架かる湘南大橋を渡って,134号を厚木に向かって進むと、やがて両側にパイプラインが走る大きな工場が見えます。日産車体湘南工場でした。ここで造られていた10代目ダットサントラックが2012年に生産終了となり、それは同時に日産車体湘南工場の生産終了でもありました。私が最初に自動車工場の生産ラインを見学したのは日産自動車横浜本社工場でした。61年、ちょうどダットサントラック320型発売直後で、新型トラックが生産ラインを流れていました。同時に2年前発売のブルーバードも流れていました。320型ダットサントラックは、ブルーバードをベースに造られているので、前のボンネット部分は全く同じスタイルです。むしろトラックの方が似合うような堅実なスタイルでした。63年ブルーバードがモデルチェンジをして2代目になります。このころ、アメリカに車が輸出されたりして、性能的には欧州車に太刀打ちできるようになっていましたが、デザインはとても遅れていました。そこに60年、プリンス自動車がイタリアのジョバンニ・ミケロッテーがデザインしたスカイラインスポーツを発表し、少数でしたが発売もします。61年カロッツェッリア・ヴィニャーレがデザインしたコンパーノをダイハツ自動車が発表し63年発売します。64年ジョバンニ・ミケロッテーが日野・コンテッサを、67年いすゞ自動車がカロッツェッリア・ギアがデザインの117くーぺとフローリアンを発売します。日産自動車も、デザイン的に遅れているのを挽回すべきカロッツェッリア・ピニンファリーナデザインの2代目ブルーバードを発売します。しかしこの車の尻の下がったデザインが不評で、喧々諤々の論争が起きます。その2代目ブルーバードのボンネットスタイルをほぼ踏襲するスタイルで発売されたのが65年6代目520型、写真のダットサントラックです。2012年に生産終了したダットサントラックは、10代67年という日本最長の生産期間の車でした。


110.pngダットサン・シルビア
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国道20号線甲府方面へ撮影に行くため、厚木から津久井方面に向かう途中に、撮影を始めた20年以上前から変わらない廃車の置かれた場所があります。DATSUN と書かれた大きな看板を掲げた自動車販売店であった店舗が廃墟になり、荒れ果てています。そこに6,70年代と思えるアメリカ車が5,6台放置されて雨ざらしになっていました。山間を抜ける道路で家もまばらにある程度のこんな寂しい場所に、アメ車を売るデーラーがあったことが不思議でなりませんでした。半年ぶりに国師ケ岳撮影に行く機会にこの場所を訪れました。すると、それまでなかったはずの放置されていた廃車にシートが被せられていました。断りなくシートをはがすわけにもいかないので、被せられていない3台だけ写真を撮りました。前のダットラがその1枚で、次はこの写真の2代目シルビアです。シルビアは、前編「廃車のある風景」に初代に付いての思いを書きました。初代が販売終了してから7年後の75年、ニッサン・ニューシルビアとして発売されました。ニューシルビアは、北米市場向けセクレタリーカー(秘書用の車)として発売されました。クリフカットの直線的な美しいデザインの初代の面影は無く、北米向けを狙った2灯式や、うねりの強いスタイルは日本の顧客には共感を得られず、国内販売台数は月2000台ほどと、ライバルのセリカには遠く及びませんでした。リアーに「DATSUN 200SX」というエンブレムがあるのは北米向けです。バンパーが大きく前に出ています。これは北米仕様の5マイルバンパー(低速での衝突吸収のため)で、77年から付いています。ハンドルも左です。ということは、一旦北米へ輸出された車を、逆輸入したに違いありません。シルビア2代目でさえ貴重な車ですが、それの逆輸入車となれば、超貴重車であるでしょう。まだまだリストアに耐える綺麗さで、なぜシートを被せないのか不思議です。シルビアは販売不振のまま79年に生産終了し、3代目となります。


126.pngトヨタ・セリカ

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ユーミンが歌う『よそゆきの顔で』が発売された80年、セリカは歌詞に出てくるほど象徴的な車で、「観音崎の歩道橋に立つ ドアのへこんだ白いセリカが 下をくぐってゆかないか」と歌ったのでしょう。セリカの発売は衝撃的でした。前年東京モーターショーに展示されたセリカが、翌年の70年に発売され、それまでの日本車にはない美しい車でした。こんな車に乗りたいと思いましたが、安月給の私にはとても買える車ではないので、ただ眺めているだけでした。恐らくユーミンも気に入った車であったので、歌詞に読み込んだのでしょう。セリカはスペシャルティーカーというカテゴリを成立させました。スペシャルティーカーとは、スポーティーカー、デイトカーとも呼ばれ、スタイリッシュなクーペ、もしくはハードトップの車で、スポーツカーほどの高性能な車を呼びました。車高を低くして、実用的な乗り心地よりカッコ良さを優先した車でした。70年にトヨタ・セリカが発売されると、70年代から80年代はスペシャルティーカーの全盛時代となりました。いすゞ自動車から117クーペ 68年~81年、三菱自動車からコルトギャランGTO 70年~77年、マツダ自動車からコスモAP 75年~81年、ホンダ技研からプレリュード 78年~82年、富士重工業からアルシオーネ 85年~91年と次々に発売され、日産自動車からは79年に3代目シルビアが発売されます。さらに軽自動車にまでスペシャルティーカーが登場します。セリカも73年には3ドアリフトバックが発売され、これに2000ccDOHCエンジンを積んだLB2000GTが発売され、一番の人気車となりました。アメリカにも多く輸出されたようで、写真の車は輸出専用セリカクーペ2200GTです。バンパーにゴムのクッションが付いた5マイルバンパーです。廃車とはいえセリカにで会えて、昔片思いした恋人に会えた思いがしました。


127.pngトヨタ・セリカ
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前の3台の写真を撮ってから、20号線を勝沼まで行き、国師ケ岳に登りました。その帰り、行きとは違う横道にそれたら、なんと写真の5代目セリカにで会いました。セリカの2代目3代目は居住性を重視したと思える直線を生かしたセダン色の強いモデルでした。4代目は、キャッチコピーが「流面形、発見さる」で、流動感あるなめらかな曲線の美しいホォルムとなり、それは1代目を彷彿させるスペシャルティーカーとなりました。ライトを完全に隠したリトラクトラブルヘッドライトで新鮮な美しいボデイラインです。写真の85年発売5代目セリカは、先代のスタイルをそのままに「ニューエアロフォルム」と呼ばれたボデイになりました。このころ盛んに行われたのは、世界で行われているGPレースやラリーレースにメーカーとして参戦することでした。それに使用される車にスペシャルティーカーが多く使われ、優勝すれば、それを誇りとして宣伝に使われました。そのためにエンジンが強化され、DOHCやターボエンジンが当たり前になり、写真の車もインタークーラー付きで、ボンネットに空気取り入れ口があります。セリカも数々のレースに参加し、優勝するたびに派手に宣伝されました。しかし、90年代になると居住性の良いSUVに人気が移行し、スペシャルティーカーと呼ばれる車は次ぐ次と消えていきました。いすゞ・ピアッツァ2代目が93年、マツダ・コスモ4代目が96年、スバル・アルシオーネSVX2代目が96年、ホンダ・プレリュード5代目が2001年。最後まで残ったのはニッサン・シルビアで7代目の2002年、そしてセリカで7代目の2006年でした。


111.pngトヨタ・セラ
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先日、テスラに乗る機会がありました。乗ったのはテスラ・モデルXという車で、値段は3種類あり、安いので1千万越え、高いのは2千万もする超高級電気自動車です。3列シートの7人乗りSUVです。そして、後部ドアはボタンを押すと上へ開くガルウイングドアだったのです。私が「ガルウイングだ!」と言うと、セールスマンの方が「ガルウイングではありません。ファルコンウイングです」と訂正されました。どこが違うのかと言うと、2か所のヒンジでくの字に曲がるので、狭い場所でもドアを開けることができるのだそうです。ガルウイングと言えば、元祖ベンツ300SLです。レーシングカーとしての軽量化と強度確保を両立させるため、細い鋼管を組み合わせたマルチチューブ・スペースフレームのためにガルウイングドアが生まれたのです。先日、レストアのため車体とボデイが分離した車を見ました。なるほどボデイ側面を縦に貫くパイプの梁があるため、必然的にガルウイングになったことがわかりました。90年、ガルウイングを日本で最初に採用したセラは、グラスキャピーノ・グラストップという、ボディ上部がガラスでおおわれたデザインから生まれたドアで、横に開くのではなく、ランボルギーニ・カウンタックの様に前ヒンジで前に開くバタフライドアです。私の若い同僚がセラに乗っていたので、何度か乗りました。なるほど周りがガラスでオープンカーのような開放感があります。しかしそれだけ外からは中が丸見えです。夏はクーラーをきかせても帽子が必要です。また、内側からドアを開けるのに、押し上げにくく、外から開けてもらいました。他車との差別感を味わう、日本的な安作りのスペシャルティーカーあるいはデイトカーでした。同僚は、私と職場が変わってからすぐに結婚しました。彼女を乗せてデイトの度に外からドアを開けてあげたのでしょうか。セラはフランス語で「意志」という意味で、彼はどんな意志で乗り続けたのでしょう。94年の生産終了までに国内販売は15892台で、1万台ほどが輸出されたそうです。河口湖から篭坂峠への上り口にある、自動車修理工場の前に置かれていました。断ってドアを開けると、昔の匂いが香ってきました。


148.pngトヨタ・ソアラ
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写真のこの車の車名をご存知でしょうか。80年代になると、ハイソカーの時代になります。土地バブルが始まり、景気が上向き、所得が増えたことから国民のだれもが中流意識を持ち出しました。メーカーも、輸出車の台数制限や販売の鈍化を上級車を売って解消しようとする戦略でもありました。最初に出たのが80年ニッサン・レパードでしたが、エンジン性能が従来のOHC6気筒または4気筒のままで物足りなさがありました。81年にソアラが出ると、全てが6気筒及び2800ccDOHCで、グレードの高さを誇りました。特に「スーパーホアイト」という白い車は高級車を持つ喜びを満足させて、ブームになりました。さらに86年に2台目ソアラが出ると、バブルと重なりベストセラーの売れ行きから、5年間で30万台も売れたのだそうです。さて写真の車ですが、そんな一世を風靡したソアラのなれの果て、2001年発売の4代目で、アメリカ製のレクサスを日本販売名ソアラとした車です。私はたまたま近所に所有されている方がいたので知っていましたが、おそらく実物を見ている方は少ないのではないでしょうか。何しろ2005年生産終了までに5400台しか販売されなかったのですから。国内販売はアメリカ仕様の4人乗りの電動コンバーチブルです。屋根は後部トランクへ収納されて、オープンカーになります。タイヤが異常に大きく見えるのは18インチという大型タイヤだからです。内装は本木目を多く使った高級感のある凝ったデザインになっています。でも、富裕層の人でもこのギリシャ人がデザインした車ではなかなか手を出さないのではないでしょうか。246号松田山の近くにある資材置き場のすみに置かれていました。まだ乗れる状態ですが、この先どうなるのでしょう。


143.png三菱・エクリプス
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この車の車名をご存知でしょうか。国師が岳での紅葉の写真を撮った帰りに、牧丘町の集落でこの車を見つけました。山梨市牧丘町は葡萄の巨峰や桃の生産が盛んな山の斜面に広がる地域です。国師へ行く道路の両側は巨峰の葡萄畑が続いて、豊と思える大きな農家が畑の間に続いています。しかしここも空家が目立ちます。そんな朽ちかけた空家の横に、紅葉のように赤い朽ちかけたこの車がありました。見覚えのない車なので、後ろへ回ると三菱のマークとリアガーニッシュに「ECLIPSE」と書かれていました。調べると、三菱自動車米国法人のダイヤモンド・スター・モーターズが生産した三菱・エクリプスという車であるとわかりました。ギャランをベースに、当時提携していたクラースラー社と共同で開発され、89年に発売された「スポーツコンパクトカー」と呼ばれた車で、4座のクーペとカブリオレがありました。ヨーロッパやアジアにも輸出され、日本には左ハンドルのまま輸入されています。写真の車は、94年発売の2代目で、96年から輸入されたモデルのカブリオレです。アメリカではヒットしましたが、日本ではほとんど人気がない車で、ごく少量の輸入だそうです。しかし、2001年『ワイルド・スピード』というカーアクションの映画で、2代目エクリプスが活躍する場面があり、途端に人気が出たそうです。日本でも公開されて、その影響で輸入も増え、もしかしたら映画に魅せられてこの車を購入したのかもしれません。2000年ごろ、まだまだ車は魅力的なアイテムでした。高校を卒業した息子に、車を購入することを条件に農家を継ぐというのはよく聞いた話です。この車を所有した若者は、オープンにしてマフラーからアメ車特有の低音を響かせて葡萄畑の斜面を走り抜けていたのかもしれません。しかし、それから20年、廃屋となった農家と廃車になった車には、どんなドラマがあったのでしょう。エクリプスは3代目が2006年で生産を終了しています。


130.pngマツダ・サバンナRX-7
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上野にある国立科学博物館に、ロータリーエンジンと、搭載したRX-7が常設展示されています。日本の科学技術の発展を示す製品として。60年代は日本だけではなく世界の自動車会社が争ってロータリーエンジンの開発に熱狂した時代でした。65年ごろだと思いますが、東京モーターショーにいすゞ自動車からもロータリーエンジンを展示したのを見ました。その効果で株価が上がりましたが、本当に回るのかが疑問視されていました。中でもマツダ自動車は会社の存続を賭けての必死であったのは、貿易自由化に備え通産省による合併が画策されていたからです。60年に西ドイツのNSUヴァンケル社(現アウディー)から技術提携を受けて、開発に踏み切ります。その様子がNHKTV『プロジェクトx』28回目に前後編として放送されました。その成果として、67年にロータリーエンジンを搭載したコスモスポーツが発売されます。これは世界で唯一の成功した量産車になりました。その後継車として78年に発売されたのがマツダ・サバンナRX7です。水冷2ローター12Aロータリーエンジンで130PS/7000rpm、パワーウエイトレシオは7,5kg、0-400mが15.8秒という、当時としては高性能でした。しかしある評論家から「軽い速い低いが、すべてが軽々しく薄っぺらで安っぽい感じ」と酷評されてしまいました。コスモスポーツの未来的なデザインと比べたら仕方がないデザインでした。アメリカへも多く輸出されましたが「プアマンポルシェ」と呼ばれました。写真の車は83年発売の後期型です。ターボエンジンとなり稀薄燃料で、燃費の悪さを改善しています。


122.pngマツダ・サバンナRX-7
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今はそういうことはありませんが、以前は興味がある車の新車が出ると、あちらのメーカーこちらのデーラーと試乗に出かけたものです。するとメーカーによって対応の違いが分かります。王者トヨタはさすがに対応が素晴らしく、下位のメーカーはそれが分かる対応であることが分かりました。この頃、次はスポーツカーに乗りたいと思い、写真のRX-7が候補の1つで近くのマツダのデーラーに行きました。ところが試乗車がないので準備できたら連絡するとのこと。当時は、今のように試乗車が常に準備されているわけではなく、予約する必要があることもありました。しばらく待っても連絡が来ないので電話すると、もうしばらく待ってくれとのこと。またしばらく待っても連絡が来ないので、再度デーラーに行くと、事故などがあって今は試乗ができないとのこと、試乗が出来ないことよりその対応の悪さに、30年たった今でも不快な思いをしたのを覚えています。トヨタは家にまで来て試乗車が準備できたことを伝えました。あれこれ迷った結果、買ったのはホンダ・CR-Xでした。マツダ・RX-7は82年にモデルチェンジされ2代目になります。2代目はインタークーラー付きターボ13B型エンジン205PSで最高速度238,5km/hを誇りました。91年にロータリーエンジンを積んだ787B型レーシングカーがル・マン24時間耐久レースで総合優勝をします。その頃がロータリーエンジンもマツダ自動車も絶頂期で、この後バブルが崩壊して崖を転落していきます。国師が岳の帰り、わき道にそれて牧丘町の市街地に入るとすぐにRX-7の1代目と2代目の2台を見つけました。後ろには廃墟になった店舗らしき建物があります。おそらくバブルの崩壊と共に倒産したしたマツダのデーラーであったのかもしれません。


157.pngホンダ・CR-X
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CR-Xは、走るのに楽しい車でした。東北自動車道を仙台市松島北インターまで約400kmを3時間で行きました。途中で、後ろからぐんぐん近づいて来る車があり、追い越し車線から走行車線へ道を開けると、時速200km近くで走るポルシェでした。抜かれたのはその1台だけで、そんな無茶なこともしました。ポルシェとスピードを争うほど特別に速く走る車ではありませんでしたが、小型でショートホイルベースであることからきびきび走る車で、疲れることなく長距離を走ることができました。軽量樹脂を多用することで、とても軽い車重で燃費も良かったです。ホンダはこれを「FFライトウエイトスポーツ」と名付けました。1代目は、半分開くリトラクタブルライトがとてもかわいく思いました。さらに、屋根が外に開くアウタースライドサンルーフは、ドライブをますます楽しいものにしてくれました。そんなお気に入りの「愛車」でしたが、3年で買い換えました。それは、2+2のリヤーシートが、購入時は2人の我が子が乗れる状態でしたが、成長は速いもので、3年で乗せるのがかわいそうになり、あきらめざるを得なくなったからです。ホンダ・CR-Xは83年に発売され、87年に2代目にリトラクタブルライトが普通のライトに変更するマイナーチェンジをしました。写真の車は2代目です。牧丘町の市街地にあった瀟洒な1軒屋の前にある広い庭、そこに置かれた2代目CR-X。この車の持ち主も、愛車のCR-Xが廃車になっても処分しきれず、置いてあるのかもしれません。何か昔の自分に出会った思いがして、暗くなりだした空の下、いつまでも眺めていました。


137.pngフォルクスワーゲン・ゴルフ
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数えると全部で50台、シロッコとビートルが1台ずつ、あとはすべてゴルフです。相模湖の手前、半原バイパスを走っていると大量のゴルフが放置されている光景に出会います。富士山に初めて通いだした20年以上前から変わらない光景です。ホンダ・CR-Xを乗り換えようと考えているとき、たまたま通った道路脇に数台並べた中古販売店で、まだ新しいゴルフを見つけました。値段も高くないので、初めての外車に乗ってみようと衝動買いをしました。さすがに世界のファミリーカーだけあって、4人家族には十分な広さで、貧乏人にとって外車はちょっと贅沢をした気分でした。楽しかったのは屋根が手動で開くことです。子どもに「オープン」というと、ハンドルでぐるぐる回して開け、これがほんとの児童(自動)ドアでした。しかし、すぐに欠点が目につきました。まず走行音がうるさい、加速が悪い、シートも固くごつごつして乗り心地が悪い、燃費も良くない、唯一気に入ったのはオーディオで、メーカーはパナソニック(日本名ナショナル)でした。最大の困ったことは、ワイパーが左ハンドル用と同じなため、とても見にくいことと、雨が降ると水が漏ってくることでした。あるとき、床にたっぷり水がたまるほどになり、2年を待たずに買い替えることにしました。ベストセラーを続けたフォルクスワーゲン・タイプ2(ビートル)が68年に生産終了となり、かわりのタイプ3やタイプ4が空冷エンジンであることから評判が悪く販売も低調でした。待たれたニュータイプが74年発売のフォルクスワーゲン・ゴルフで、ジウジアーロデザインによる3ドアハッチバック、2ボックス横置きエンジン前輪駆動車でした。その合理的な設計思想が評価され、世界のベストセラーとなりました。これ以降、世界の小型車がすべてゴルフと同じコンセプトの車になってしまいました。83年に2代目ゴルフⅡが発売され、私の乗った車はこれでした。世界では多く売れたようですが、日本ではどうだったのでしょう。私の個人的な感想ですが、とても良い車とは思えませんでした。その後乗り換えたホンダ・コンチェルトは、日本車の良さを実感させてくれました。日本では人気がなかった証拠のように放置されている50台のゴルフは、このまま朽ち果てるのでしょうか。それとも次の乗り手を待っているのでしょうか。


131.pngスバル・レガシー
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2018年はスバルにとって最悪の年となりました。2017年、日産自動車が起こした(ゴーン社長によるコストカットが原因)無資格検査問題に伴い、スバルも無資格で検査していたことが判明、22,5万台がリコール、同時に燃料検査と排ガス検査の不正も発覚。おそらく販売がガタ落ちになることでしょう。この10年スバルの販売は右肩上がりで伸びて来ました。それはSUVのブームであり、安全装置の先行にありました。しかし、急激な売れ行きに会社の体制が付いていけなっかった結果での不正であったようです。スバルは創業当初から技術的に高い会社でしたが、販売は低調でした。スバルが売れたのは、アウディー・クワトロのおかげで、クワトロが4輪駆動で世界のラリー選手権を席巻すると、それまで4輪駆動車を販売続けていたスバルが突然注目されたのです。そして89年に発売されたスバル・レガシーがブレイクして売れ出し倒産の危機を回避しました。それまでワゴンはセダンから派生したものでしたが、初めからワゴンである車は初めてでした。しかもロッド・スチュワートが歌う「今夜きめよう」の野性的な叫びがマッチして、日本でもワゴン車を定着させることになりました。ちょうどそのころ富士山撮影を始めた私は、セダンの不便さから93年に発売された2代目レガシーの中のグランドワゴンを94年に購入することになりました。車中泊ができる広い室内、4輪駆動と床下20cmは悪路の高座山や梨が原を楽々走り回れました。しかし、とても壊れる車で、わずかですが絶えずオイル漏れが続き、パワーステアリング、ダイナモ、ラジエターの交換、マフラーは2度も交換し、最後にはエンジンブロックがひび割れしてエンジン交換までしました。それでも直し直しして、11年24万キロを乗りましたが、最後はがたがたな状態でした。技術力は高い会社ですが、基礎的な品質管理が足りない会社であると思いました。写真の車は、98年発売の3代目で、グランドワゴンはランカスターという名称に変更されました。山中湖からパノラマ台へ上る途中の空き地に放置されていました。スバルがトヨタのグループに入り、きっと壊れない車を造ることになるでしょうが、個性のない車になってしまうかもしれません。


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途中です

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by minorufuji2089 | 2018-01-01 11:08 | 続・廃車のある風景


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